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マリィ・プリマヴェラの日記


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占い、面白いです!
なぜって自分のこと、あなたのことが的確にわかるから。
そして未来が見えるから。
それを生かすも生かさないのも自分次第、あなた次第。
上手に占いを使って楽しく生きていきたい!
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『ボルネオ島で現地召集された兵士の手記より』
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    明日8月15日は終戦記念日。
    そういえば8月に入ってから
    太平洋戦争時代をテーマにしたTV番組や
    新聞等の記事を
    たびたび目にします。
    また、あの季節がやってきたのです。

    私の父はこの4月にお誕生日を迎えました。
    いくつになったの?と聞くと
    私はね、95歳だよ、と。
    その父が20歳ほどの若い時代、
    兵隊として戦地に赴き、
    はるか南の島ボルネオ島で終戦を迎えました。

    15年前、娘が小学6年生の夏休みの宿題に
    「戦争の聞き書き」というテーマを出されました。
    そこで、娘にとっては母方の祖父である私の父に
    戦時中および戦後、捕虜になった話を聞きました。
    また父は筆まめで
    戦友会や、当時勤務していた会社関係の書籍に
    いくつかの文章を寄稿していました。

    インタヴューと、父の文章と。
    それらをまとめ、
    小学生に読めるように
    私が作文したものがあります。

    例年、この時期になると
    マリィ日記に掲載しているので
    お読みになった方もいらっしゃるでしょう。
    懲りずに今年もまた、同じ文章を掲載します。
    二度と戦争がおきませんように。
    世界の紛争地帯に平和と調和が訪れますように。
    そんな願いを込めて。

    長文のうえ、小学生向けですので
    読みづらいかもしれませんが、
    お時間のある時にお読みいただけたら幸いです。


      *************************************

    『ボルネオ島で現地召集された兵士の手記より』

    〜はじめに〜

    「戦争中、人々はどんな暮らしをしていたか」
    というテーマがあれば、
    私たちの目はつい日本国内で暮らし、
    防空壕を掘り、空襲におびえ、食糧難に苦しみ、
    あるいは疎開し、あるいは原爆の犠牲になり…
    という生活を思い浮かべることでしょう。
    しかし、国内で生活している人々のほかに、
    外地(日本本来の領土以外の領有地。朝鮮、満州、台湾など)に
    兵隊という身分で日々を送った人たちがいたことも
    忘れてはいけないと思うのです。
     
    というのも、現在80歳(当時)になる私の父は、
    その青年時代の一時期を軍隊で過ごしました。
    この夏、父が話してくれた軍隊時代の話は、
    それはそれは壮絶です。
    まるで小説を読んでいるような、
    まるで作り話かと疑うような、
    つまり今の日本で暮らしているかぎり、
    決して体験しないであろう事実が語られたのです。
    父の話は、このまま埋もれさせるには、
    あまりに惜しい内容でした。
    少なくとも戦争のカケラも知らない娘や、そのお友達には
    ぜひ知っておいて欲しい話だと思いました。
    幸いにして1942年〜1946年頃を思い出して
    父が書いた手記が、私の手元にあります。
    ただ文章表現が難しかったり、
    注釈がないとわかりにくい内容だったりするので、
    改めて私がわかりやすく書き直したほうが読みやすいだろうと、
    こうして新たに文章をおこしている次第です。



    〜拓南塾〜

    父の軍隊生活は、1942年(昭和17年)に始まります。
    といってもこの年に入隊したわけではなく、
    「拓南塾」という学校に入学したのです。
    「拓南塾」というのは、
    「南を拓く(ひらく)塾」という文字が示すとおり、
    当時、欧米の植民地となっていた東南アジアの人たちを、
    日本の力で解放し、
    「それぞれの民族が自分の力で自分たちの国を築いてもらおう」
    という目的のもと、
    その指導者となる人を育成する学校でした。
    父は「海外で、人のために働きたい」
    という強い意欲を持っていて、
    難関といわれた拓南塾に合格、入学したのです。
    しかし、拓南塾での生活が、
    そののちの苦しい軍隊生活へと直結するとは、
    父自身はもちろん、
    拓南塾への入学に大賛成だった父の両親すらも
    考えてはいなかったでしょう。

    拓南塾には
    「南方(東南アジア)を墳墓の地とせよ、
    現地に溶け込むように努力し、
    日本人として完成して内外人の模範となるように」
    という方針がありました。
    マレー語(インドネシア語)や英語をはじめ、
    厳しい勉強をし、
    1943年(昭和18年)7月末、卒業。
    その直後、拓南塾から推薦され、
    ボルネオ島北部の
    日沙商会(にっさしょうかい)という商社へ入社するため
    8月末、広島の宇品港から一路、ボルネオに向けて
    船で出航しました。
    父はこのとき18歳と4ヶ月。
    今でいえば高校3年生といった年恰好です。



    〜日沙商会〜

    1943年(昭和18年)9月末、
    父は北ボルネオに着きました。
    ここに日沙商会の支店があり、
    父の社会人生活がスタートするのです。
    初めての南の国での生活は、
    18歳の男の子にとって、
    どれほどエキサイティングだったことでしょう。
    見るもの聞くもの全てが目新しく、
    しかも自分は「南方(東南アジア)の指導者になる」
    という希望を抱いてやってきているのですから、
    意気揚々とした日々だったはずです。

    しかし、戦雲は急を告げていました。
    太平洋戦争(第二次世界大戦)での日本は、
    そうとう切羽詰った状況だったはずです。
    通常ならば内地(日本国内)で召集令状をもらい、
    その地、もしくは本籍のある土地などで入隊し、
    その後、訓練を経て兵隊になるのですが、
    この頃はそうしている余裕がなかったのでしょう。
    父は現地ボルネオで徴兵検査を受け、
    現地招集という形で1944年(昭和19年)10月、
    独立守備歩兵第40大隊に入隊しました。
    つまり仕事先のボルネオで
    一会社員から兵隊になったというわけです。



    〜入隊〜

    入隊後、まずは教育隊に入り、
    兵隊としての教育を受けます。
    「要領がよくならないことには、
    軍隊ではビンタだけをたくさんいただくことになる」と
    父は手記に記していますが、
    要領がいまひとつよくないために
    悲惨な結末になった人もいたようです。

    兵隊の装備一式は、
    天皇陛下から頂戴したものと叩き込まれ、
    とても大切にあつかい、
    傷つけたりしたものなら、それはひどい目にあいました。
    まして、陛下からのいただきものである備品をなくしでもしたら…。

    川原で飯ごう炊さんをしていた時のこと。
    ひとりの初年兵が飯ごうをうっかり川に流してしまったそうです。
    当然、すぐに川に入って飯ごうをとろうとしたのですが、
    流れが速すぎたために間に合わず、
    飯ごうは流されてしまいました。
    彼はズブぬれのまま放心状態。
    備品を失うことの重大さと、その処罰の恐ろしさ…。
    戦友に救われたとき、彼には言葉もなく、
    足腰すらも立ちませんでした。
    食事も歩くこともトイレすら自分でできないまま病室へ。
    以後、散歩というと軍医に背負われ、
    赤い花を見つけるとそれを口に入れている、
    というウワサまで流れたということです。
    飯ごうたったひとつの流出で、
    幼児のような精神状態の患者になってしまったことは、
    なんとも言いようもなく悲しい出来事です。
    父が教育隊から中隊に配属される日、
    その彼は軍医に背負われて見送るように近くにいてくれた、
    それが彼を見た最後だったそうです。

    1945年(昭和20年)2月、
    教育隊で兵隊としての教育を終了した父は、
    中隊に配属されました。
    この頃、戦局は日本軍の敗退を暗示するかのような状態で、
    連合軍が南方各地に上陸し、
    そこにいた日本軍は分断され、
    圧倒的に優勢な連合軍の兵火と物量の前に、
    多くの戦死傷者を出していました。
    兵舎はゴム林の中にありましたが、
    そのゴム林にも敵機のまくビラが落ちてきました。
    ビラには
    「戦局は日本軍に決して有利ではない。
    無駄な抵抗はやめて降伏せよ」
    といった内容が書かれていたそうです。
    しかし、父たちはすぐに拾い集め、焼き捨てたとか。
    戦局がそれほどに急迫しているとは思ってもいなかったのです。

    軍隊での日々も、教育隊での日々と同じように
    厳しいものだったといいます。
    教育隊のときには飯ごうを川に流してしまっただけで
    幼児のような精神状態になってしまった人がいましたが、
    中隊に入隊後には鉄砲で自殺した人もいたそうです。
    ある日、父が訓練から帰ってみたら、
    その人は鉄砲の銃口をお腹にあて、
    自分の足で引き金を引き、
    自殺していたのです。
    このまま軍隊にいたのではどうにもならないような、
    よほど辛いことがあったのでしょう。



    〜官給品〜

    ところで、兵隊が「天皇陛下からいただいた装備」、
    つまり官給品とはどんなものだったでしょう。
    父の場合は南方でしたから、
    その地独特のものもあったようです。

    ・帽子…野球帽のようなツバのあるもので、
     南方の暑さをしのぐために帽子の後ろ側に布がたれている
    ・防蚊面…ぼうかめん・細かい網で出来ている円筒形のもの。
     頭からすっぽりかぶって蚊から身を守る。
     蚊はマラリアという病気を運ぶためにかぶる。
    ・防蚊掌…ぼうかとう・蚊よけのためのキャンバス地の手袋。
    ・半袖の防暑服…開襟シャツ
    ・袴下…こした・ステテコ
    ・軍袴…ぐんこ・ズボン
    ・軍足…ぐんそく・ソックス
    ・軍靴…ぐんか・編み上げの半長靴、いわばハーフブーツ
    ・歩兵銃…ピストルではなく、長い鉄砲
    ・弾入れ…ベルトのようにして腰に巻く。
     百数十発分の弾が入っている。
    ・帯剣…銃にさして使う剣
    ・背のう…ランドセルみたいなリュック
    ・雑のう…ショルダーバッグ
    ・水筒
    ・円匙…えんぴ・スコップ
    ・十字しゅ…ピッケル
    ・一人用天幕…テント

    …ほかにもたくさんありますが。
    背のうの中には衣類や教科書、
    食器、裁縫道具などを入れ、
    背のうの周囲には天幕を結わえ、
    これを背負ったあと、
    水筒と雑のうをバッテンがけにして肩から下げます。
    雑のうには手帳や筆記具などを入れていたそうです。



    〜逃避行〜

    さて、中隊に配属後、
    父たちはプジェットの丘というところまで行軍しました。
    到着後、すぐに父は発熱。
    防蚊面や防蚊掌などがあったにもかかわらず、
    マラリアにかかってしまったのです。
    マラリアはハマダラ蚊が媒介する
    マラリア原虫によっておこる伝染性の熱病で、
    特効薬はキニーネ。
    一定の潜伏期間の後、悪寒、震えと共に体温が上昇し、
    1〜2時間続きます。
    その後、悪寒は消えますが、
    体温は更に上昇し、
    顔面紅潮、呼吸切迫、結膜充血、嘔吐、頭痛、
    筋肉痛などが起こり、
    これが4〜5時間続くと発汗と共に解熱します。
    症状は重く、
    治療が遅れると意識障害、腎不全などを起こし、
    死亡することもまれではないという病気です。
    そのマラリアにかかってしまったのです。

    プジェットの丘にある兵舎からは南シナ海が見え、
    すでに10艘あまりの敵艦が制圧していました。
    高射砲で敵艦に向けて撃ったけれど、
    まるで相手にしていないかのように応戦してきません。
    しかし、ついに敵からの艦砲射撃が始まり、
    とうとうプジェットの丘から後退することになりました。
    要するに敵から逃げ出すわけです。
    1945年(昭和20年)6月半ばのことでした。

    父たちは友軍(同じ日本軍)の応援を待ちましたが、
    もはや戦局はそれどころではありません。
    敵の戦闘機に追われ、
    父たち敗残兵(戦いに負けて生き残った兵士)は
    湿地帯のジャングルに逃げ込みます。
    ジャングルを歩くと
    知らぬ間にゲートル(足のスネに巻く布)の中にヒルがもぐりこみ、
    それを追い払いつつ行軍するのです。

    プジェットの丘を逃げ出してから1ヵ月後、
    敵の爆撃はいよいよ激しくなり、
    父たちはさらに奥地へと後退することになります。
    マラリア患者は父だけではなく、
    他にも大勢いて、
    その患者たちと負傷者が軍用トラック1台に収容され、
    トラックに乗ったままでの後退です。
    父は連日の悪寒、発熱に苦しめられ、
    衰弱しきっていたため、
    トラックでの乗車後退を命じられたのですが、
    「生き抜けよ、がんばれよ」という戦友の声も、
    発熱中の父には遠い所で聞いているようにしか思えなかったそうです。

    トラックの荷台にうずくまっていた父は、
    別の中隊にいた土居さんの、のぞきこむような顔を見ました。
    土居さんは日沙商会でも、教育隊でも一緒だった人です。
    「このままではあいつは死んでしまう。
    私の持っている注射薬を打ってやってくれ」
    と軍医に頼み込んでくれまいた。
    軍医の持つ薬以外は投薬できない規則の中で、
    どういうやりとりがあったのかわからないけれど、
    おかげで父は死線から這いだしたのです。

    しかしトラック後退での途中、
    道が爆破されていて先に進めなくなったため、
    マラリア兵と負傷兵は降ろされ、
    それぞれが三々五々後退することになりした。
    父は渡辺さんという同年兵と一緒に、
    なぐさめ、かばいあいつつ、
    杖をつきながら歩いたそうです。
    途中、小屋を見つけて泊まることにしたのですが、
    中にはすでにマラリア患者3人がいました。
    翌朝、早くに目がさめた父は、
    先客であった左隣に寝ていた兵隊に
    「洗面にいってきます」と声をかけ、
    自分の手ぬぐいをとろうとしたところ、
    隣の手ぬぐいが落ちて、
    その兵隊の顔にかかってしまいました。
    それを取り除いて謝ったのですが、
    返事がありません。
    疲れて眠っているのだろうと思い、
    そのまま洗面に出たのですが、
    小屋に戻って声をかけても、やはり返事がない。
    顔に手を近づけてみると、息をしていなかったそうです。
    一夜のうちにその兵隊は亡くなっていたのです。

    ある峠を越えたところは、
    密林に囲まれた盆地状になっていて、
    父たちはしばらくそこで過ごしました。
    父が所属した中隊の隊員の一部もそこにいて、
    20人ほどが駐屯していました。
    指揮をするのは軍曹。
    ところが敵の空襲を受け、軍曹は足を負傷。
    軍医がいる野戦病院まで担架で連れて行くことになりました。
    けわしい崖のある狭い山道を担いでいくのです。
    担架が揺れると、40歳すぎのベテラン軍曹が
    「痛い、痛い、お母さん!」と叫びます。
    結局、軍曹はその野戦病院で亡くなったそうですが、
    軍人精神をそのままあらわしたかのような軍曹でさえ、
    最後に頼るのは天皇陛下ではなく
    「お母さん」なのです。

    その後、中隊が到着、父はようやく元の隊に復帰しました。
    が、そこからまた行軍が始まります。
    しかし、一度は落ち着いたかに思えたマラリアがまた再発し、
    落伍寸前になりながらも、
    父はふらつく足で戦友の肩を借り、
    目的地にたどりついたのです。

    父は当時、脚気にも苦しんでいました。
    脚気とはビタミンB1不足のためにおこる病気で、
    足がしびれたり、むくんだりします。
    同じ中隊の数人が、
    その地よりさらに奥地で野菜を作っているということで、
    「合流して野菜を食べて治せ」ということになりました。
    同病の対比地さんと一緒です。
    これが1945年(昭和20年)7月20日頃。
    ジャングルの中を、目的地に向かって歩くのですが、
    ジャングルにはマングローブが生え、
    その根が水の中に出ている湿地帯を、
    腰まで水につかりながら歩いていくのです。
    マラリアと脚気の患者2人がよろよろと歩いていくのです。
    なんと辛かったことか、
    心細かったことか。
    しかし、新鮮な野菜をふんだんに使った食事のおかげで、
    脚気で袴下(こした・ステテコ)もはけないほどだった足のむくみも、
    ウソのように治ってしまいました。

    ところが体が衰弱しているところへ、
    急激にたらふくご飯を食べる毎日は、
    胃腸への負担が大きかったのでしょう、
    今度はお腹の具合がおかしくなってしまいます。
    アメーバ赤痢(大腸カタル・大腸の炎症)です。
    トイレに30分おきに通うハメになってしまいました。
    そうこうするうちに、またマラリアが再発。
    体力の衰えを病気が待ち構えているような日々でした。

    中隊に配属後から終戦までの半年あまり、
    父は飢えと病気と闘いながらの逃避に次ぐ逃避行でした。
    「よく永らえて今日があるものと、不思議にさえ思う」
    と記しています。
    もっとも飢えと病気と闘いながらの逃避行は、
    父だけではありません。
    他にも何人も、何十人、いえ何百、何千、何万という兵隊たちが、
    病気の程度、飢えの程度の差はあっても、
    同じように苦しんだのです。
        


    〜終戦、そして捕虜収容所〜

    「1945年(昭和20年)8月15日。
    敵機が低空で飛来。
    飛行士の顔も見える。
    われわれは本能的に木の陰に隠れたが、
    敵の機銃掃射もなく、飛び去っていく。
    戦争締結が誤報ではないことを知った。
    ついで、停戦協定ではない、
    敗戦降伏であることが、通信隊からの情報で明らかになる。
    茫然自失(ぼうぜんじしつ)−。
    まだわれわれは戦えるのに、何で降伏せねばならぬのか。」
    …終戦を知ったときのことを父はそう書いています。

    しかし、その日のうちにまたマラリアが何度目かの再発。
    ゾクゾクと身震いし、高熱が出ます。
    もうろうとした意識で何日かが過ぎ、
    オーストラリア兵が日本兵を捕虜として収容するため、
    奥地までやってきました。
    川を船でさかのぼってやってきたのです。
    しかし父には気力も体力もなく、
    腰がふらついて立つことさえできません。
    「船に乗れ」という命令にも
    「置いていってくれ、死んでもかまわん」と言うのがやっとで、
    また意識が薄れていきます。
    気がついたら船に乗せられていました。
    みんなが戸板に乗せて船まで運んでくれたそうです。
    父は戦友によって一命を取りとめたのです。

    こうしてその年の8月20日頃、
    父たちは捕虜収容所に入れられました。
    が、与えられる食事は病人ということもあり、
    わずかなビスケットだけ。
    20歳の青年に足りるはずがありません。
    その後、別の収容所に送られてからも食事は少なく、
    たとえば朝は飯ごうのフタにすれすれいっぱいのおかゆだけ。
    ひもじさのあまり、隠れてタピオカイモを生のまま
    一度にたくさん食べたため、
    翌朝には亡くなってしまった同年兵もいたそうです。
    帰国を目前に、そんな死に方をして、
    なんと哀れで無残なことでしょう。

    父は収容所の中で、上官から鉛筆書きの短歌をいただきました。
    「やむがては心おきなく住める世を 
    思ひて(思いて)けふ(きょう)も忍び生きなん」
    「はぐくみて咲かせし花を散らすのも 祖国は同じ春の雨かな」
     


    〜帰国〜

    収容所生活が半年におよぼうとする1946年(昭和21年)2月11日、
    父たちは復員船「輝山丸」に乗船しました。
    父はこう記しています、
    「これで日本へ帰れる、という思いが、
    戦(いくさ)敗れた無念さと交錯して、
    胸をしめつけられるようでもあり、
    胸に穴があいたようでもある」。

    輝山丸が広島県の大竹港に入港したのは、その年3月8日。
    翌9日にようやく下船がかない、
    なつかしい祖国に上陸してみると
    粉雪が舞っていました。
    防暑服の上下や衿をかきあわせ、
    哀れな捕虜は震えるばかりだったといいます。
    赤道直下のボルネオから約ひと月かけて
    春まだ浅い日本へと帰ってきたのです。

    その4日後、父は両親の住む木之元駅にたどり着きました。
    駅頭には白いエプロン姿の母親が出迎えていてくれ、
    夢かと思ったそうです。
    母親は外聞も何もなく父に抱きつき、
    「やせたねえ、もう、これからはどこへも行かないでね」−。
    18歳の青年だった父が勇んで行ったはずの南方だったけれど、
    それが実は親不孝という結果を招いていたのだと知り、
    父はたまらない気持ちだったそうです。



    〜おわりに〜

    この夏、戦争中の話を聞いた折に、
    父は「こんなものがあるよ」と
    手の中にすっぽりおさまるほどの小さなものを見せてくれました。
    2cm×5cmくらいの布の上に星が3つ縫い付けてあります。
    階級章です。
    捕虜収容所にいる間に上等兵となった父の、
    階級を示すものです。
    父は帰国以来、ずーっと、何十年もの間、
    これを神棚にしまっておいたそうです。
    色もあせ、汚らしく見えるそれは、
    しかし父と一緒に南の国から帰ってきたもの。
    なんといとおしいものでしょう。
    父とともによく無事に帰ってきたことでしょう。
    そして父はこんなに小さな汚らしいものを
    大事に大事にしまっておいたのです。
    父の若い時代の壮絶な体験を、つぶさに見てきた階級章。
    私はそれを手にとり、
    「よくぞ無事に帰ってきてくれたこと…」。
    思わずつぶやきました。

    (了)

      ***********************

    2019年夏。
    父95歳、足腰こそ弱っているものの、
    今もなお意気盛んです。
    頭もはっきりとし、私に苦言を呈することもしばしば。
    そして今も言います、
    「機会があればもう一度ボルネオに行ってみたいねぇ」。
    叶うはずなどないことですが、
    輝くような日々と、正反対の壮絶な日々とが交錯する
    青年時代を過ごしたボルネオ島は
    父の生きる支えになっているのかもしれません。



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