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マリィ・プリマヴェラの日記


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占い、面白いです!
なぜって自分のこと、あなたのことが的確にわかるから。
そして未来が見えるから。
それを生かすも生かさないのも自分次第、あなた次第。
上手に占いを使って楽しく生きていきたい!
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   *********************************
ボルネオ島で現地召集された兵士の手記より
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    8月15日の今日は終戦記念日。
    先年、96歳で亡くなった父は、
    生きていたら99歳。
    戦地に行った経験があります。
    兵隊さんとしたらほぼ最年少だったはず。
    その戦争体験は壮絶なものだったと聞きます。

    娘が小学6年生の夏休み、
    「戦争の聞き書き」というテーマの宿題を出されました。
    そこで、娘にとっては母方の祖父である私の父に
    話を聞くことになりました。

    また父は筆まめで
    戦友会や、当時勤務していた会社関係の書籍に
    いくつかの文章を寄稿していました。

    インタヴューと、父の文章。
    それらをまとめ、
    小学生に読めるように
    私が作文したものがあります。

    例年、この時期になると
    マリィ日記に掲載しているので
    お読みになった方もいらっしゃるでしょう。
    懲りずに今年もまた、同じ文章を掲載します。
    二度と戦争がおきませんように。
    世界の紛争地帯に平和と調和が訪れますように。
    そんな願いを込めて…。

    長い文章ですが、
    お時間のある時にお読みいただけたら幸いです。




    「ボルネオ島で現地召集された兵士の手記より」
        〜はじめに〜

     「戦争中、人々はどんな暮らしをしていたか」
    というテーマがあれば、
    私たちの目はつい日本国内で暮らし、
    防空壕を掘り、空襲におびえ、食糧難に苦しみ、
    あるいは疎開し、あるいは原爆の犠牲になり…
    という生活を思い浮かべることでしょう。
    しかし、国内で生活している人々のほかに、
    外地(日本本来の領土以外の領有地。朝鮮、満州、台湾など)に
    兵隊という身分で日々を送った人たちがいたことも
    忘れてはいけないと思うのです。
     
    というのも、現在80歳(当時)になる私の父は、
    その青年時代の一時期を軍隊で過ごしました。
    この夏、父が話してくれた軍隊時代の話は、
    それはそれは壮絶です。
    まるで小説を読んでいるような、
    まるで作り話かと疑うような、
    つまり今の日本で暮らしているかぎり、
    決して体験しないであろう事実が語られたのです。
    父の話は、このまま埋もれさせるには、
    あまりに惜しい内容でした。
    少なくとも戦争のカケラも知らない娘や、そのお友達には
    ぜひ知っておいて欲しい話だと思いました。

    幸いにして1942年〜1946年頃を思い出して
    父が書いた手記が、私の手元にあります。
    ただ文章表現が難しかったり、
    注釈がないとわかりにくい内容だったりするので、
    改めて私がわかりやすく書き直したほうが読みやすいだろうと、
    こうして新たに文章をおこしている次第です。



        〜拓南塾〜

     父の軍隊生活は、1942年(昭和17年)に始まります。
    といってもこの年に入隊したわけではなく、
    「拓南塾」という学校に入学したのです。
     「拓南塾」というのは、
    「南を拓く(ひらく)塾」という文字が示すとおり、
    当時、欧米の植民地となっていた東南アジアの人たちを、
    日本の力で解放し、
    「それぞれの民族が自分の力で自分たちの国を築いてもらおう」
    という目的のもと、
    その指導者となる人を育成する学校でした。
     父は「海外で、人のために働きたい」
    という強い意欲を持っていて、
    難関といわれた拓南塾に合格、入学したのです。
    しかし、拓南塾での生活が、
    そののちの苦しい軍隊生活へと直結するとは、
    父自身はもちろん、
    拓南塾への入学に大賛成だった父の両親すらも
    考えてはいなかったでしょう。
     拓南塾には「南方(東南アジア)を墳墓の地とせよ、
    現地に溶け込むように努力し、
    日本人として完成して内外人の模範となるように」
    という方針がありました。
    マレー語(インドネシア語)や英語をはじめ、
    厳しい勉強をし、
    1943年(昭和18年)7月末、卒業。
    その直後、拓南塾から推薦され、
    ボルネオ島北部の
    日沙商会(にっさしょうかい)という商社へ入社するため
    8月末、広島の宇品港から一路、ボルネオに向けて
    船で出航しました。
    父はこのとき18歳と4ヶ月。
    今でいえば高校3年生といった年恰好です。



        〜日沙商会〜

     1943年(昭和18年)9月末、
    父は北ボルネオに着きました。
    ここに日沙商会の支店があり、
    父の社会人生活がスタートするのです。
    初めての南の国での生活は、
    18歳の男の子にとって、
    どれほどエキサイティングだったことでしょう。
    見るもの聞くもの全てが目新しく、
    しかも自分は「南方(東南アジア)の指導者になる」
    という希望を抱いてやってきているのですから、
    意気揚々とした日々だったはずです。
     しかし、戦雲は急を告げていました。
    太平洋戦争(第二次世界大戦)での日本は、
    そうとう切羽詰った状況だったはずです。
    通常ならば内地(日本国内)で召集令状をもらい、
    その地、もしくは本籍のある土地などで入隊、
    その後、訓練を経て兵隊になるのですが、
    この頃はそうしている余裕がなかったのでしょう。
    父は現地ボルネオで徴兵検査を受け、
    現地招集という形で1944年(昭和19年)10月、
    独立守備歩兵第40大隊に入隊しました。
    つまり仕事先のボルネオで
    一会社員から兵隊になったというわけです。



        〜入隊〜

     入隊後、まずは教育隊に入り、
    兵隊としての教育を受けます。
    「要領がよくならないことには、
    軍隊ではビンタだけをたくさんいただくことになる」と
    父は手記に記していますが、
    要領がいまひとつよくないために
    悲惨な結末になった人もいたようです。
     兵隊の装備一式は、
    天皇陛下から頂戴したものと叩き込まれ、
    とても大切にあつかい、
    傷つけたりしたものなら、それはひどい目にあいました。
    まして、陛下からのいただきものである備品をなくしでもしたら…。
     川原で飯ごう炊さんをしていた時のこと。
    ひとりの初年兵が飯ごうをうっかり川に流してしまったそうです。
    当然、すぐに川に入って飯ごうをとろうとしたのですが、
    流れが速すぎたために間に合わず、
    飯ごうは流されてしまいました。
    彼はズブぬれのまま放心状態。
    備品を失うことの重大さと、その処罰の恐ろしさ…。
    戦友に救われたとき、彼には言葉もなく、
    足腰すらも立ちませんでした。
    食事も歩くこともトイレすら自分でできないまま病室へ。
    以後、散歩というと軍医に背負われ、
    赤い花を見つけるとそれを口に入れている、
    というウワサまで流れたということです。
    飯ごうたったひとつの流出で、
    幼児のような精神状態の患者になってしまったことは、
    なんとも言いようもなく悲しい出来事です。
    父が教育隊から中隊に配属される日、
    その彼は軍医に背負われて見送るように近くにいてくれた、
    それが彼を見た最後だったそうです。
     1945年(昭和20年)2月、
    教育隊で兵隊としての教育を終了した父は、
    中隊に配属されました。
    この頃、戦局は日本軍の敗退を暗示するかのような状態で、
    連合軍が南方各地に上陸し、
    そこにいた日本軍は分断され、
    圧倒的に優勢な連合軍の兵火と物量の前に、
    多くの戦死傷者を出していました。
    兵舎はゴム林の中にありましたが、
    そのゴム林にも敵機のまくビラが落ちてきました。
    ビラには
    「戦局は日本軍に決して有利ではない。
    無駄な抵抗はやめて降伏せよ」
    といった内容が書かれていたそうです。
    しかし、父たちはすぐに拾い集め、焼き捨てたとか。
    戦局がそれほどに急迫しているとは思ってもいなかったのです。
     軍隊での日々も、教育隊での日々と同じように
    厳しいものだったといいます。
    教育隊のときには飯ごうを川に流してしまっただけで
    幼児のような精神状態になってしまった人がいましたが、
    中隊に入隊後には鉄砲で自殺した人もいたそうです。
    ある日、父が訓練から帰ってみたら、
    その人は鉄砲の銃口をお腹にあて、
    自分の足で引き金を引き、
    自殺していたのです。
    このまま軍隊にいたのではどうにもならないような、
    よほど辛いことがあったのでしょう。



        〜官給品〜

     ところで、兵隊が「天皇陛下からいただいた装備」、
    つまり官給品とはどんなものだったでしょう。
    父の場合は南方でしたから、
    その地独特のものもあったようです。

    ・帽子…野球帽のようなツバのあるもので、
     南方の暑さをしのぐために帽子の後ろ側に布がたれている
    ・防蚊面…ぼうかめん・細かい網で出来ている円筒形のもの。
     頭からすっぽりかぶって蚊から身を守る。
     蚊はマラリアという病気を運ぶためにかぶる。
    ・防蚊掌…ぼうかとう・蚊よけのためのキャンバス地の手袋。
    ・半袖の防暑服…開襟シャツ
    ・袴下…こした・ステテコ
    ・軍袴…ぐんこ・ズボン
    ・軍足…ぐんそく・ソックス
    ・軍靴…ぐんか・編み上げの半長靴、いわばハーフブーツ
    ・歩兵銃…ピストルではなく、長い鉄砲
    ・弾入れ…ベルトのようにして腰に巻く。
     百数十発分の弾が入っている。
    ・帯剣…銃にさして使う剣
    ・背のう…ランドセルみたいなリュック
    ・雑のう…ショルダーバッグ
    ・水筒
    ・円匙…えんぴ・スコップ
    ・十字しゅ…ピッケル
    ・一人用天幕…テント

    …ほかにもたくさんありますが。
     背のうの中には衣類や教科書、
    食器、裁縫道具などを入れ、
    背のうの周囲には天幕を結わえ、
    これを背負ったあと、
    水筒と雑のうをバッテンがけにして肩から下げます。
    雑のうには手帳や筆記具などを入れていたそうです。



        〜逃避行〜

     さて、中隊に配属後、
    父たちはプジェットの丘というところまで行軍しました。
    到着後、すぐに父は発熱。
    防蚊面や防蚊掌などがあったにもかかわらず、
    マラリアにかかってしまったのです。
    マラリアはハマダラ蚊が媒介する
    マラリア原虫によっておこる伝染性の熱病で、
    特効薬はキニーネ。
    一定の潜伏期間の後、悪寒、震えと共に体温が上昇し、
    1〜2時間続きます。
    その後、悪寒は消えますが、
    体温は更に上昇し、
    顔面紅潮、呼吸切迫、結膜充血、嘔吐、頭痛、
    筋肉痛などが起こり、
    これが4〜5時間続くと発汗と共に解熱します。
    症状は重く、
    治療が遅れると意識障害、腎不全などを起こし、
    死亡することもまれではないという病気です。
    そのマラリアにかかってしまったのです。
     プジェットの丘にある兵舎からは南シナ海が見え、
    すでに10艘あまりの敵艦が制圧していました。
    高射砲で敵艦に向けて撃ったけれど、
    まるで相手にしていないかのように応戦してきません。
    しかし、ついに敵からの艦砲射撃が始まり、
    とうとうプジェットの丘から後退することになりました。
    要するに敵から逃げ出すわけです。
    1945年(昭和20年)6月半ばのことでした。
     父たちは友軍(同じ日本軍)の応援を待ちましたが、
    もはや戦局はそれどころではありません。
    敵の戦闘機に追われ、
    父たち敗残兵(戦いに負けて生き残った兵士)は
    湿地帯のジャングルに逃げ込みます。
    ジャングルを歩くと
    知らぬ間にゲートル(足のスネに巻く布)の中にヒルがもぐりこみ、
    それを追い払いつつ行軍するのです。
     プジェットの丘を逃げ出してから1ヵ月後、
    敵の爆撃はいよいよ激しくなり、
    父たちはさらに奥地へと後退することになります。
    マラリア患者は父だけではなく、
    他にも大勢いて、
    その患者たちと負傷者が軍用トラック1台に収容され、
    トラックに乗ったままでの後退です。
    父は連日の悪寒、発熱に苦しめられ、
    衰弱しきっていたため、
    トラックでの乗車後退を命じられたのですが、
    「生き抜けよ、がんばれよ」という戦友の声も、
    発熱中の父には遠い所で聞いているようにしか思えなかったそうです。
     トラックの荷台にうずくまっていた父は、
    別の中隊にいた土居さんの、のぞきこむような顔を見ました。
    土居さんは日沙商会でも、教育隊でも一緒だった人です。
    「このままではあいつは死んでしまう。
    私の持っている注射薬を打ってやってくれ」
    と軍医に頼み込んでくれました。
    軍医の持つ薬以外は投薬できない規則の中で、
    どういうやりとりがあったのかわからないけれど、
    おかげで父は死線から這いだしたのです。
     しかしトラック後退での途中、
    道が爆破されていて先に進めなくなったため、
    マラリア兵と負傷兵は降ろされ、
    それぞれが三々五々後退することになりした。
    父は渡辺さんという同年兵と一緒に、
    なぐさめ、かばいあいつつ、
    杖をつきながら歩いたそうです。
    途中、小屋を見つけて泊まることにしたのですが、
    中にはすでにマラリア患者3人がいました。
    翌朝、早くに目がさめた父は、
    先客であった左隣に寝ていた兵隊に
    「洗面にいってきます」と声をかけ、
    自分の手ぬぐいをとろうとしたところ、
    隣の手ぬぐいが落ちて、
    その兵隊の顔にかかってしまいました。
    それを取り除いて謝ったのですが、
    返事がありません。
    疲れて眠っているのだろうと思い、
    そのまま洗面に出たのですが、
    小屋に戻って声をかけても、やはり返事がない。
    手を顔に近づけてみると、息をしていなかったそうです。
    一夜のうちにその兵隊は亡くなっていたのです。
     ある峠を越えたところは、
    密林に囲まれた盆地状になっていて、
    父たちはしばらくそこで過ごしました。
    父が所属した中隊の隊員の一部もそこにいて、
    20人ほどが駐屯していました。
    指揮をするのは軍曹。
    ところが敵の空襲を受け、軍曹は足を負傷。
    軍医がいる野戦病院まで担架で連れて行くことになりました。
    けわしい崖のある狭い山道を担いでいくのです。
    担架が揺れると、40歳すぎのベテラン軍曹が
    「痛い、痛い、お母さん!」と叫びます。
    結局、軍曹はその野戦病院で亡くなったそうですが、
    軍人精神をそのままあらわしたかのような軍曹でさえ、
    最後に頼るのは天皇陛下ではなく
    「お母さん」なのです。
     その後、中隊が到着、父はようやく元の隊に復帰しました。
    が、そこからまた行軍が始まります。
    しかし、一度は落ち着いたかに思えたマラリアがまた再発し、
    落伍寸前になりながらも、
    父はふらつく足で戦友の肩を借り、
    目的地にたどりついたのです。
     父は当時、脚気にも苦しんでいました。
    脚気とはビタミンB1不足のためにおこる病気で、
    足がしびれたり、むくんだりします。
    同じ中隊の数人が、
    その地よりさらに奥地で野菜を作っているということで、
    「合流して野菜を食べて治せ」ということになりました。
    同病の対比地さんと一緒です。
    これが1945年(昭和20年)7月20日頃。
    ジャングルの中を、目的地に向かって歩くのですが、
    ジャングルにはマングローブが生え、
    その根が水の中に出ている湿地帯を、
    腰まで水につかりながら歩いていくのです。
    マラリアと脚気の患者2人がよろよろと歩いていくのです。
    なんと辛かったことか、
    心細かったことか。
    しかし、新鮮な野菜をふんだんに使った食事のおかげで、
    脚気で袴下(こした・ステテコ)もはけないほどだった足のむくみも、
    ウソのように治ってしまいました。
     ところが体が衰弱しているところへ、
    急激にたらふくご飯を食べる毎日は、
    胃腸への負担が大きかったのでしょう、
    今度はお腹の具合がおかしくなってしまいます。
    アメーバ赤痢(大腸カタル・大腸の炎症)です。
    30分おきにトイレに通うハメになってしまいました。
    そうこうするうちに、またマラリアが再発。
    病気が体力の衰えを待ち構えているような日々でした。
     中隊に配属後から終戦までの半年あまり、
    父は飢えと病気と闘いながらの逃避に次ぐ逃避行でした。
    「よく永らえて今日があるものと、不思議にさえ思う」
    と記しています。
    もっとも飢えと病気と闘いながらの逃避行は、
    父だけではありません。
    他にも何人も、何十人、いえ何百、何千、何万という兵隊たちが、
    病気の程度、飢えの程度の差はあっても、
    同じように苦しんだのです。
        


    〜終戦、そして捕虜収容所〜

    「1945年(昭和20年)8月15日。
    敵機が低空で飛来。
    飛行士の顔も見える。
    われわれは本能的に木の陰に隠れたが、
    敵の機銃掃射もなく、飛び去っていく。
    戦争締結が誤報ではないことを知った。
    ついで、停戦協定ではない、
    敗戦降伏であることが、通信隊からの情報で明らかになる。
    茫然自失(ぼうぜんじしつ)−。
    まだわれわれは戦えるのに、何で降伏せねばならぬのか。」
    …終戦を知ったときのことを父はそう書いています。
     しかし、その日のうちにまたマラリアが何度目かの再発。
    ゾクゾクと身震いし、高熱が出ます。
    もうろうとした意識で何日かが過ぎ、
    オーストラリア兵が日本兵を捕虜として収容するため、
    奥地までやってきました。
    川を船でさかのぼってやってきたのです。
    しかし父には気力も体力もなく、
    腰がふらついて立つことさえできません。
    「船に乗れ」という命令にも
    「置いていってくれ、死んでもかまわん」と言うのがやっとで、
    また意識が薄れていきます。
    気がついたら船に乗せられていました。
    みんなが戸板に乗せて船まで運んでくれたそうです。
    父は戦友によって一命を取りとめたのです。
     こうしてその年の8月20日頃、
    父たちは捕虜収容所に入れられました。
    が、与えられる食事は病人ということもあり、
    わずかなビスケットだけ。
    20歳の青年に足りるはずがありません。
    その後、別の収容所に送られてからも食事は少なく、
    たとえば朝は飯ごうのフタにすれすれいっぱいのおかゆだけ。
    ひもじさのあまり、隠れてタピオカイモを生のまま
    一度にたくさん食べたため、
    翌朝には亡くなってしまった同年兵もいたそうです。
    帰国を目前に、そんな死に方をして、
    なんと哀れで無残なことでしょう。
     父は収容所の中で、上官から鉛筆書きの短歌をいただきました。
    「やむがては心おきなく住める世を 
    思ひて(思いて)けふ(きょう)も忍び生きなん」
    「はぐくみて咲かせし花を散らすのも 祖国は同じ春の雨かな」
     


       〜帰国〜

     収容所生活が半年におよぼうとする1946年(昭和21年)2月11日、
    父たちは復員船「輝山丸」に乗船しました。
    父はこう記しています、
    「これで日本へ帰れる、という思いが、
    戦(いくさ)敗れた無念さと交錯して、
    胸をしめつけられるようでもあり、
    胸に穴があいたようでもある」。
     輝山丸が広島県の大竹港に入港したのは、その年3月8日。
    翌9日にようやく下船がかない、
    なつかしい祖国に上陸してみると
    粉雪が舞っていました。
    防暑服の衿をかきあわせ、
    哀れな捕虜は震えるばかりだったといいます。
    赤道直下のボルネオから約ひと月かけて
    春まだ浅い日本へと帰ってきたのです。
     その4日後、父は両親の住む木之元駅にたどり着きました。
    駅頭には白いエプロン姿の母親が出迎えていてくれ、
    夢かと思ったそうです。
    母親は外聞も何もなく父に抱きつき、
    「やせたねえ、もう、これからはどこへも行かないでね」−。
    18歳の青年だった父が勇んで行ったはずの南方だったけれど、
    それが実は親不孝という結果を招いていたのだと知り、
    父はたまらない気持ちだったそうです。



        〜おわりに〜

     この夏、戦争中の話を聞いた折に、
    父は「こんなものがあるよ」と
    手の中にすっぽりおさまるほどの小さなものを見せてくれました。
    2cm×5cmくらいの布の上に星が3つ縫い付けてあります。
    階級章です。
    捕虜収容所にいる間に上等兵となった父の、
    階級を示すものです。
    父は帰国以来、ずーっと、何十年もの間、
    これを神棚にしまっておいたそうです。
    色もあせ、汚らしく見えるそれは、
    しかし父と一緒に南の国から帰ってきたもの。
    なんといとおしいものでしょう。
    父とともによく無事に帰ってきたことでしょう。
    そして父はこんなに小さな汚らしいものを
    大事に大事にしまっておいたのです。
    父の若い時代の壮絶な体験を、つぶさに見てきた階級章。
    私はそれを手にとり、
    「よくぞ無事に帰ってきてくれたこと…」。
    思わずつぶやきました。

                                  了
    | 非日常のこと | 19:48 | comments(0) | - | - | - |
    『ボルネオ島で現地召集された兵士の手記より』2020年
    0
      明日8月15日は終戦記念日です。
      今年は新型コロナ禍もあって
      普段とは違う夏です。
      変わりがないことといえば
      8月に入ってから太平洋戦争時代をテーマにしたTV番組や
      新聞等の記事をたびたび目にすること。

      10数年前、娘が小学6年生の夏休みの宿題に
      「戦争の聞き書き」というテーマを出されました。
      そこで、娘にとっては母方の祖父である私の父に
      戦時中および戦後、捕虜になった話を聞きました。
      父は20歳ほどの若い時代、
      兵隊として戦地に赴き、
      はるか南の島ボルネオ島で終戦を迎えました。
      その父は筆まめで
      戦友会や、当時勤務していた会社関係の書籍に
      いくつかの文章を寄稿していました。

      インタヴューと、父の文章と。
      それらをまとめ、
      小学生に読めるように
      私が作文したものがあります。

      例年、この時期になると
      マリィ日記に掲載しているので
      お読みになった方もいらっしゃるでしょう。
      懲りずに今年もまた、同じ文章を掲載します。
      二度と戦争がおきませんように。
      世界の紛争地帯に平和と調和が訪れますように。
      そんな願いを込めて。

      長文のうえ、小学生向けですので
      読みづらいかもしれませんが、
      お時間のある時にお読みいただけたら幸いです。


        *************************************

      『ボルネオ島で現地召集された兵士の手記より』

      〜はじめに〜

      「戦争中、人々はどんな暮らしをしていたか」
      というテーマがあれば、
      私たちの目はつい日本国内で暮らし、
      防空壕を掘り、空襲におびえ、食糧難に苦しみ、
      あるいは疎開し、あるいは原爆の犠牲になり…
      という生活を思い浮かべることでしょう。
      しかし、国内で生活している人々のほかに、
      外地(日本本来の領土以外の領有地。朝鮮、満州、台湾など)に
      兵隊という身分で日々を送った人たちがいたことも
      忘れてはいけないと思うのです。
       
      というのも、現在80歳(当時)になる私の父は、
      その青年時代の一時期を軍隊で過ごしました。
      この夏、父が話してくれた軍隊時代の話は、
      それはそれは壮絶です。
      まるで小説を読んでいるような、
      まるで作り話かと疑うような、
      つまり今の日本で暮らしているかぎり、
      決して体験しないであろう事実が語られたのです。
      父の話は、このまま埋もれさせるには、
      あまりに惜しい内容でした。
      少なくとも戦争のカケラも知らない娘や、そのお友達には
      ぜひ知っておいて欲しい話だと思いました。
      幸いにして1942年〜1946年頃を思い出して
      父が書いた手記が、私の手元にあります。
      ただ文章表現が難しかったり、
      注釈がないとわかりにくい内容だったりするので、
      改めて私がわかりやすく書き直したほうが読みやすいだろうと、
      こうして新たに文章をおこしている次第です。



      〜拓南塾〜

      父の軍隊生活は、1942年(昭和17年)に始まります。
      といってもこの年に入隊したわけではなく、
      「拓南塾」という学校に入学したのです。
      「拓南塾」というのは、
      「南を拓く(ひらく)塾」という文字が示すとおり、
      当時、欧米の植民地となっていた東南アジアの人たちを、
      日本の力で解放し、
      「それぞれの民族が自分の力で自分たちの国を築いてもらおう」
      という目的のもと、
      その指導者となる人を育成する学校でした。
      父は「海外で、人のために働きたい」
      という強い意欲を持っていて、
      難関といわれた拓南塾に合格、入学したのです。
      しかし、拓南塾での生活が、
      そののちの苦しい軍隊生活へと直結するとは、
      父自身はもちろん、
      拓南塾への入学に大賛成だった父の両親すらも
      考えてはいなかったでしょう。

      拓南塾には
      「南方(東南アジア)を墳墓の地とせよ、
      現地に溶け込むように努力し、
      日本人として完成して内外人の模範となるように」
      という方針がありました。
      マレー語(インドネシア語)や英語をはじめ、
      厳しい勉強をし、
      1943年(昭和18年)7月末、卒業。
      その直後、拓南塾から推薦され、
      ボルネオ島北部の
      日沙商会(にっさしょうかい)という商社へ入社するため
      8月末、広島の宇品港から一路、ボルネオに向けて
      船で出航しました。
      父はこのとき18歳と4ヶ月。
      今でいえば高校3年生といった年恰好です。



      〜日沙商会〜

      1943年(昭和18年)9月末、
      父は北ボルネオに着きました。
      ここに日沙商会の支店があり、
      父の社会人生活がスタートするのです。
      初めての南の国での生活は、
      18歳の男の子にとって、
      どれほどエキサイティングだったことでしょう。
      見るもの聞くもの全てが目新しく、
      しかも自分は「南方(東南アジア)の指導者になる」
      という希望を抱いてやってきているのですから、
      意気揚々とした日々だったはずです。

      しかし、戦雲は急を告げていました。
      太平洋戦争(第二次世界大戦)での日本は、
      そうとう切羽詰った状況だったはずです。
      通常ならば内地(日本国内)で召集令状をもらい、
      その地、もしくは本籍のある土地などで入隊し、
      その後、訓練を経て兵隊になるのですが、
      この頃はそうしている余裕がなかったのでしょう。
      父は現地ボルネオで徴兵検査を受け、
      現地招集という形で1944年(昭和19年)10月、
      独立守備歩兵第40大隊に入隊しました。
      つまり仕事先のボルネオで
      一会社員から兵隊になったというわけです。



      〜入隊〜

      入隊後、まずは教育隊に入り、
      兵隊としての教育を受けます。
      「要領がよくならないことには、
      軍隊ではビンタだけをたくさんいただくことになる」と
      父は手記に記していますが、
      要領がいまひとつよくないために
      悲惨な結末になった人もいたようです。

      兵隊の装備一式は、
      天皇陛下から頂戴したものと叩き込まれ、
      とても大切にあつかい、
      傷つけたりしたものなら、それはひどい目にあいました。
      まして、陛下からのいただきものである備品をなくしでもしたら…。

      川原で飯ごう炊さんをしていた時のこと。
      ひとりの初年兵が飯ごうをうっかり川に流してしまったそうです。
      当然、すぐに川に入って飯ごうをとろうとしたのですが、
      流れが速すぎたために間に合わず、
      飯ごうは流されてしまいました。
      彼はズブぬれのまま放心状態。
      備品を失うことの重大さと、その処罰の恐ろしさ…。
      戦友に救われたとき、彼には言葉もなく、
      足腰すらも立ちませんでした。
      食事も歩くこともトイレすら自分でできないまま病室へ。
      以後、散歩というと軍医に背負われ、
      赤い花を見つけるとそれを口に入れている、
      というウワサまで流れたということです。
      飯ごうたったひとつの流出で、
      幼児のような精神状態の患者になってしまったことは、
      なんとも言いようもなく悲しい出来事です。
      父が教育隊から中隊に配属される日、
      その彼は軍医に背負われて見送るように近くにいてくれた、
      それが彼を見た最後だったそうです。

      1945年(昭和20年)2月、
      教育隊で兵隊としての教育を終了した父は、
      中隊に配属されました。
      この頃、戦局は日本軍の敗退を暗示するかのような状態で、
      連合軍が南方各地に上陸し、
      そこにいた日本軍は分断され、
      圧倒的に優勢な連合軍の兵火と物量の前に、
      多くの戦死傷者を出していました。
      兵舎はゴム林の中にありましたが、
      そのゴム林にも敵機のまくビラが落ちてきました。
      ビラには
      「戦局は日本軍に決して有利ではない。
      無駄な抵抗はやめて降伏せよ」
      といった内容が書かれていたそうです。
      しかし、父たちはすぐに拾い集め、焼き捨てたとか。
      戦局がそれほどに急迫しているとは思ってもいなかったのです。

      軍隊での日々も、教育隊での日々と同じように
      厳しいものだったといいます。
      教育隊のときには飯ごうを川に流してしまっただけで
      幼児のような精神状態になってしまった人がいましたが、
      中隊に入隊後には鉄砲で自殺した人もいたそうです。
      ある日、父が訓練から帰ってみたら、
      その人は鉄砲の銃口をお腹にあて、
      自分の足で引き金を引き、
      自殺していたのです。
      このまま軍隊にいたのではどうにもならないような、
      よほど辛いことがあったのでしょう。



      〜官給品〜

      ところで、兵隊が「天皇陛下からいただいた装備」、
      つまり官給品とはどんなものだったでしょう。
      父の場合は南方でしたから、
      その地独特のものもあったようです。

      ・帽子…野球帽のようなツバのあるもので、
       南方の暑さをしのぐために帽子の後ろ側に布がたれている
      ・防蚊面…ぼうかめん・細かい網で出来ている円筒形のもの。
       頭からすっぽりかぶって蚊から身を守る。
       蚊はマラリアという病気を運ぶためにかぶる。
      ・防蚊掌…ぼうかとう・蚊よけのためのキャンバス地の手袋。
      ・半袖の防暑服…開襟シャツ
      ・袴下…こした・ステテコ
      ・軍袴…ぐんこ・ズボン
      ・軍足…ぐんそく・ソックス
      ・軍靴…ぐんか・編み上げの半長靴、いわばハーフブーツ
      ・歩兵銃…ピストルではなく、長い鉄砲
      ・弾入れ…ベルトのようにして腰に巻く。
       百数十発分の弾が入っている。
      ・帯剣…銃にさして使う剣
      ・背のう…ランドセルみたいなリュック
      ・雑のう…ショルダーバッグ
      ・水筒
      ・円匙…えんぴ・スコップ
      ・十字しゅ…ピッケル
      ・一人用天幕…テント

      …ほかにもたくさんありますが。
      背のうの中には衣類や教科書、
      食器、裁縫道具などを入れ、
      背のうの周囲には天幕を結わえ、
      これを背負ったあと、
      水筒と雑のうをバッテンがけにして肩から下げます。
      雑のうには手帳や筆記具などを入れていたそうです。



      〜逃避行〜

      さて、中隊に配属後、
      父たちはプジェットの丘というところまで行軍しました。
      到着後、すぐに父は発熱。
      防蚊面や防蚊掌などがあったにもかかわらず、
      マラリアにかかってしまったのです。
      マラリアはハマダラ蚊が媒介する
      マラリア原虫によっておこる伝染性の熱病で、
      特効薬はキニーネ。
      一定の潜伏期間の後、悪寒、震えと共に体温が上昇し、
      1〜2時間続きます。
      その後、悪寒は消えますが、
      体温は更に上昇し、
      顔面紅潮、呼吸切迫、結膜充血、嘔吐、頭痛、
      筋肉痛などが起こり、
      これが4〜5時間続くと発汗と共に解熱します。
      症状は重く、
      治療が遅れると意識障害、腎不全などを起こし、
      死亡することもまれではないという病気です。
      そのマラリアにかかってしまったのです。

      プジェットの丘にある兵舎からは南シナ海が見え、
      すでに10艘あまりの敵艦が制圧していました。
      高射砲で敵艦に向けて撃ったけれど、
      まるで相手にしていないかのように応戦してきません。
      しかし、ついに敵からの艦砲射撃が始まり、
      とうとうプジェットの丘から後退することになりました。
      要するに敵から逃げ出すわけです。
      1945年(昭和20年)6月半ばのことでした。

      父たちは友軍(同じ日本軍)の応援を待ちましたが、
      もはや戦局はそれどころではありません。
      敵の戦闘機に追われ、
      父たち敗残兵(戦いに負けて生き残った兵士)は
      湿地帯のジャングルに逃げ込みます。
      ジャングルを歩くと
      知らぬ間にゲートル(足のスネに巻く布)の中にヒルがもぐりこみ、
      それを追い払いつつ行軍するのです。

      プジェットの丘を逃げ出してから1ヵ月後、
      敵の爆撃はいよいよ激しくなり、
      父たちはさらに奥地へと後退することになります。
      マラリア患者は父だけではなく、
      他にも大勢いて、
      その患者たちと負傷者が軍用トラック1台に収容され、
      トラックに乗ったままでの後退です。
      父は連日の悪寒、発熱に苦しめられ、
      衰弱しきっていたため、
      トラックでの乗車後退を命じられたのですが、
      「生き抜けよ、がんばれよ」という戦友の声も、
      発熱中の父には遠い所で聞いているようにしか思えなかったそうです。

      トラックの荷台にうずくまっていた父は、
      別の中隊にいた土居さんの、のぞきこむような顔を見ました。
      土居さんは日沙商会でも、教育隊でも一緒だった人です。
      「このままではあいつは死んでしまう。
      私の持っている注射薬を打ってやってくれ」
      と軍医に頼み込んでくれまいた。
      軍医の持つ薬以外は投薬できない規則の中で、
      どういうやりとりがあったのかわからないけれど、
      おかげで父は死線から這いだしたのです。

      しかしトラック後退での途中、
      道が爆破されていて先に進めなくなったため、
      マラリア兵と負傷兵は降ろされ、
      それぞれが三々五々後退することになりした。
      父は渡辺さんという同年兵と一緒に、
      なぐさめ、かばいあいつつ、
      杖をつきながら歩いたそうです。
      途中、小屋を見つけて泊まることにしたのですが、
      中にはすでにマラリア患者3人がいました。
      翌朝、早くに目がさめた父は、
      先客であった左隣に寝ていた兵隊に
      「洗面にいってきます」と声をかけ、
      自分の手ぬぐいをとろうとしたところ、
      隣の手ぬぐいが落ちて、
      その兵隊の顔にかかってしまいました。
      それを取り除いて謝ったのですが、
      返事がありません。
      疲れて眠っているのだろうと思い、
      そのまま洗面に出たのですが、
      小屋に戻って声をかけても、やはり返事がない。
      顔に手を近づけてみると、息をしていなかったそうです。
      一夜のうちにその兵隊は亡くなっていたのです。

      ある峠を越えたところは、
      密林に囲まれた盆地状になっていて、
      父たちはしばらくそこで過ごしました。
      父が所属した中隊の隊員の一部もそこにいて、
      20人ほどが駐屯していました。
      指揮をするのは軍曹。
      ところが敵の空襲を受け、軍曹は足を負傷。
      軍医がいる野戦病院まで担架で連れて行くことになりました。
      けわしい崖のある狭い山道を担いでいくのです。
      担架が揺れると、40歳すぎのベテラン軍曹が
      「痛い、痛い、お母さん!」と叫びます。
      結局、軍曹はその野戦病院で亡くなったそうですが、
      軍人精神をそのままあらわしたかのような軍曹でさえ、
      最後に頼るのは天皇陛下ではなく
      「お母さん」なのです。

      その後、中隊が到着、父はようやく元の隊に復帰しました。
      が、そこからまた行軍が始まります。
      しかし、一度は落ち着いたかに思えたマラリアがまた再発し、
      落伍寸前になりながらも、
      父はふらつく足で戦友の肩を借り、
      目的地にたどりついたのです。

      父は当時、脚気にも苦しんでいました。
      脚気とはビタミンB1不足のためにおこる病気で、
      足がしびれたり、むくんだりします。
      同じ中隊の数人が、
      その地よりさらに奥地で野菜を作っているということで、
      「合流して野菜を食べて治せ」ということになりました。
      同病の対比地さんと一緒です。
      これが1945年(昭和20年)7月20日頃。
      ジャングルの中を、目的地に向かって歩くのですが、
      ジャングルにはマングローブが生え、
      その根が水の中に出ている湿地帯を、
      腰まで水につかりながら歩いていくのです。
      マラリアと脚気の患者2人がよろよろと歩いていくのです。
      なんと辛かったことか、
      心細かったことか。
      しかし、新鮮な野菜をふんだんに使った食事のおかげで、
      脚気で袴下(こした・ステテコ)もはけないほどだった足のむくみも、
      ウソのように治ってしまいました。

      ところが体が衰弱しているところへ、
      急激にたらふくご飯を食べる毎日は、
      胃腸への負担が大きかったのでしょう、
      今度はお腹の具合がおかしくなってしまいます。
      アメーバ赤痢(大腸カタル・大腸の炎症)です。
      トイレに30分おきに通うハメになってしまいました。
      そうこうするうちに、またマラリアが再発。
      体力の衰えを病気が待ち構えているような日々でした。

      中隊に配属後から終戦までの半年あまり、
      父は飢えと病気と闘いながらの逃避に次ぐ逃避行でした。
      「よく永らえて今日があるものと、不思議にさえ思う」
      と記しています。
      もっとも飢えと病気と闘いながらの逃避行は、
      父だけではありません。
      他にも何人も、何十人、いえ何百、何千、何万という兵隊たちが、
      病気の程度、飢えの程度の差はあっても、
      同じように苦しんだのです。
          


      〜終戦、そして捕虜収容所〜

      「1945年(昭和20年)8月15日。
      敵機が低空で飛来。
      飛行士の顔も見える。
      われわれは本能的に木の陰に隠れたが、
      敵の機銃掃射もなく、飛び去っていく。
      戦争締結が誤報ではないことを知った。
      ついで、停戦協定ではない、
      敗戦降伏であることが、通信隊からの情報で明らかになる。
      茫然自失(ぼうぜんじしつ)−。
      まだわれわれは戦えるのに、何で降伏せねばならぬのか。」
      …終戦を知ったときのことを父はそう書いています。

      しかし、その日のうちにまたマラリアが何度目かの再発。
      ゾクゾクと身震いし、高熱が出ます。
      もうろうとした意識で何日かが過ぎ、
      オーストラリア兵が日本兵を捕虜として収容するため、
      奥地までやってきました。
      川を船でさかのぼってやってきたのです。
      しかし父には気力も体力もなく、
      腰がふらついて立つことさえできません。
      「船に乗れ」という命令にも
      「置いていってくれ、死んでもかまわん」と言うのがやっとで、
      また意識が薄れていきます。
      気がついたら船に乗せられていました。
      みんなが戸板に乗せて船まで運んでくれたそうです。
      父は戦友によって一命を取りとめたのです。

      こうしてその年の8月20日頃、
      父たちは捕虜収容所に入れられました。
      が、与えられる食事は病人ということもあり、
      わずかなビスケットだけ。
      20歳の青年に足りるはずがありません。
      その後、別の収容所に送られてからも食事は少なく、
      たとえば朝は飯ごうのフタにすれすれいっぱいのおかゆだけ。
      ひもじさのあまり、隠れてタピオカイモを生のまま
      一度にたくさん食べたため、
      翌朝には亡くなってしまった同年兵もいたそうです。
      帰国を目前に、そんな死に方をして、
      なんと哀れで無残なことでしょう。

      父は収容所の中で、上官から鉛筆書きの短歌をいただきました。
      「やむがては心おきなく住める世を 
      思ひて(思いて)けふ(きょう)も忍び生きなん」
      「はぐくみて咲かせし花を散らすのも 祖国は同じ春の雨かな」
       


      〜帰国〜

      収容所生活が半年におよぼうとする1946年(昭和21年)2月11日、
      父たちは復員船「輝山丸」に乗船しました。
      父はこう記しています、
      「これで日本へ帰れる、という思いが、
      戦(いくさ)敗れた無念さと交錯して、
      胸をしめつけられるようでもあり、
      胸に穴があいたようでもある」。

      輝山丸が広島県の大竹港に入港したのは、その年3月8日。
      翌9日にようやく下船がかない、
      なつかしい祖国に上陸してみると
      粉雪が舞っていました。
      防暑服の上下や衿をかきあわせ、
      哀れな捕虜は震えるばかりだったといいます。
      赤道直下のボルネオから約ひと月かけて
      春まだ浅い日本へと帰ってきたのです。

      その4日後、父は両親の住む木之元駅にたどり着きました。
      駅頭には白いエプロン姿の母親が出迎えていてくれ、
      夢かと思ったそうです。
      母親は外聞も何もなく父に抱きつき、
      「やせたねえ、もう、これからはどこへも行かないでね」−。
      18歳の青年だった父が勇んで行ったはずの南方だったけれど、
      それが実は親不孝という結果を招いていたのだと知り、
      父はたまらない気持ちだったそうです。



      〜おわりに〜

      この夏、戦争中の話を聞いた折に、
      父は「こんなものがあるよ」と
      手の中にすっぽりおさまるほどの小さなものを見せてくれました。
      2cm×5cmくらいの布の上に星が3つ縫い付けてあります。
      階級章です。
      捕虜収容所にいる間に上等兵となった父の、
      階級を示すものです。
      父は帰国以来、ずーっと、何十年もの間、
      これを神棚にしまっておいたそうです。
      色もあせ、汚らしく見えるそれは、
      しかし父と一緒に南の国から帰ってきたもの。
      なんといとおしいものでしょう。
      父とともによく無事に帰ってきたことでしょう。
      そして父はこんなに小さな汚らしいものを
      大事に大事にしまっておいたのです。
      父の若い時代の壮絶な体験を、つぶさに見てきた階級章。
      私はそれを手にとり、
      「よくぞ無事に帰ってきてくれたこと…」。
      思わずつぶやきました。

      (了)

        *************************************

      去年の秋、父が亡くなりました。
      若い時代に戦地で何度も死にかけつつも
      命永らえた父でしたが
      その生命の灯が尽きたのです。
      享年95歳。
      初七日、四十九日の法要では
      「ボルネオ」という言葉が飛び交いました。
      それほどに父の戦争体験は根深く、
      父の生命の根っこにがっしりと貼りついていたのでしょう。
      90歳を超えてからも
      「もう一度、ボルネオに行ってみたいなぁ」と言っていた父です。
      彼の魂はボルネオの地も訪れたことでしょう。
      | 非日常のこと | 20:05 | comments(0) | - | - | - |
      『ボルネオ島で現地召集された兵士の手記より』
      0
        明日8月15日は終戦記念日。
        そういえば8月に入ってから
        太平洋戦争時代をテーマにしたTV番組や
        新聞等の記事を
        たびたび目にします。
        また、あの季節がやってきたのです。

        私の父はこの4月にお誕生日を迎えました。
        いくつになったの?と聞くと
        私はね、95歳だよ、と。
        その父が20歳ほどの若い時代、
        兵隊として戦地に赴き、
        はるか南の島ボルネオ島で終戦を迎えました。

        15年前、娘が小学6年生の夏休みの宿題に
        「戦争の聞き書き」というテーマを出されました。
        そこで、娘にとっては母方の祖父である私の父に
        戦時中および戦後、捕虜になった話を聞きました。
        また父は筆まめで
        戦友会や、当時勤務していた会社関係の書籍に
        いくつかの文章を寄稿していました。

        インタヴューと、父の文章と。
        それらをまとめ、
        小学生に読めるように
        私が作文したものがあります。

        例年、この時期になると
        マリィ日記に掲載しているので
        お読みになった方もいらっしゃるでしょう。
        懲りずに今年もまた、同じ文章を掲載します。
        二度と戦争がおきませんように。
        世界の紛争地帯に平和と調和が訪れますように。
        そんな願いを込めて。

        長文のうえ、小学生向けですので
        読みづらいかもしれませんが、
        お時間のある時にお読みいただけたら幸いです。


          *************************************

        『ボルネオ島で現地召集された兵士の手記より』

        〜はじめに〜

        「戦争中、人々はどんな暮らしをしていたか」
        というテーマがあれば、
        私たちの目はつい日本国内で暮らし、
        防空壕を掘り、空襲におびえ、食糧難に苦しみ、
        あるいは疎開し、あるいは原爆の犠牲になり…
        という生活を思い浮かべることでしょう。
        しかし、国内で生活している人々のほかに、
        外地(日本本来の領土以外の領有地。朝鮮、満州、台湾など)に
        兵隊という身分で日々を送った人たちがいたことも
        忘れてはいけないと思うのです。
         
        というのも、現在80歳(当時)になる私の父は、
        その青年時代の一時期を軍隊で過ごしました。
        この夏、父が話してくれた軍隊時代の話は、
        それはそれは壮絶です。
        まるで小説を読んでいるような、
        まるで作り話かと疑うような、
        つまり今の日本で暮らしているかぎり、
        決して体験しないであろう事実が語られたのです。
        父の話は、このまま埋もれさせるには、
        あまりに惜しい内容でした。
        少なくとも戦争のカケラも知らない娘や、そのお友達には
        ぜひ知っておいて欲しい話だと思いました。
        幸いにして1942年〜1946年頃を思い出して
        父が書いた手記が、私の手元にあります。
        ただ文章表現が難しかったり、
        注釈がないとわかりにくい内容だったりするので、
        改めて私がわかりやすく書き直したほうが読みやすいだろうと、
        こうして新たに文章をおこしている次第です。



        〜拓南塾〜

        父の軍隊生活は、1942年(昭和17年)に始まります。
        といってもこの年に入隊したわけではなく、
        「拓南塾」という学校に入学したのです。
        「拓南塾」というのは、
        「南を拓く(ひらく)塾」という文字が示すとおり、
        当時、欧米の植民地となっていた東南アジアの人たちを、
        日本の力で解放し、
        「それぞれの民族が自分の力で自分たちの国を築いてもらおう」
        という目的のもと、
        その指導者となる人を育成する学校でした。
        父は「海外で、人のために働きたい」
        という強い意欲を持っていて、
        難関といわれた拓南塾に合格、入学したのです。
        しかし、拓南塾での生活が、
        そののちの苦しい軍隊生活へと直結するとは、
        父自身はもちろん、
        拓南塾への入学に大賛成だった父の両親すらも
        考えてはいなかったでしょう。

        拓南塾には
        「南方(東南アジア)を墳墓の地とせよ、
        現地に溶け込むように努力し、
        日本人として完成して内外人の模範となるように」
        という方針がありました。
        マレー語(インドネシア語)や英語をはじめ、
        厳しい勉強をし、
        1943年(昭和18年)7月末、卒業。
        その直後、拓南塾から推薦され、
        ボルネオ島北部の
        日沙商会(にっさしょうかい)という商社へ入社するため
        8月末、広島の宇品港から一路、ボルネオに向けて
        船で出航しました。
        父はこのとき18歳と4ヶ月。
        今でいえば高校3年生といった年恰好です。



        〜日沙商会〜

        1943年(昭和18年)9月末、
        父は北ボルネオに着きました。
        ここに日沙商会の支店があり、
        父の社会人生活がスタートするのです。
        初めての南の国での生活は、
        18歳の男の子にとって、
        どれほどエキサイティングだったことでしょう。
        見るもの聞くもの全てが目新しく、
        しかも自分は「南方(東南アジア)の指導者になる」
        という希望を抱いてやってきているのですから、
        意気揚々とした日々だったはずです。

        しかし、戦雲は急を告げていました。
        太平洋戦争(第二次世界大戦)での日本は、
        そうとう切羽詰った状況だったはずです。
        通常ならば内地(日本国内)で召集令状をもらい、
        その地、もしくは本籍のある土地などで入隊し、
        その後、訓練を経て兵隊になるのですが、
        この頃はそうしている余裕がなかったのでしょう。
        父は現地ボルネオで徴兵検査を受け、
        現地招集という形で1944年(昭和19年)10月、
        独立守備歩兵第40大隊に入隊しました。
        つまり仕事先のボルネオで
        一会社員から兵隊になったというわけです。



        〜入隊〜

        入隊後、まずは教育隊に入り、
        兵隊としての教育を受けます。
        「要領がよくならないことには、
        軍隊ではビンタだけをたくさんいただくことになる」と
        父は手記に記していますが、
        要領がいまひとつよくないために
        悲惨な結末になった人もいたようです。

        兵隊の装備一式は、
        天皇陛下から頂戴したものと叩き込まれ、
        とても大切にあつかい、
        傷つけたりしたものなら、それはひどい目にあいました。
        まして、陛下からのいただきものである備品をなくしでもしたら…。

        川原で飯ごう炊さんをしていた時のこと。
        ひとりの初年兵が飯ごうをうっかり川に流してしまったそうです。
        当然、すぐに川に入って飯ごうをとろうとしたのですが、
        流れが速すぎたために間に合わず、
        飯ごうは流されてしまいました。
        彼はズブぬれのまま放心状態。
        備品を失うことの重大さと、その処罰の恐ろしさ…。
        戦友に救われたとき、彼には言葉もなく、
        足腰すらも立ちませんでした。
        食事も歩くこともトイレすら自分でできないまま病室へ。
        以後、散歩というと軍医に背負われ、
        赤い花を見つけるとそれを口に入れている、
        というウワサまで流れたということです。
        飯ごうたったひとつの流出で、
        幼児のような精神状態の患者になってしまったことは、
        なんとも言いようもなく悲しい出来事です。
        父が教育隊から中隊に配属される日、
        その彼は軍医に背負われて見送るように近くにいてくれた、
        それが彼を見た最後だったそうです。

        1945年(昭和20年)2月、
        教育隊で兵隊としての教育を終了した父は、
        中隊に配属されました。
        この頃、戦局は日本軍の敗退を暗示するかのような状態で、
        連合軍が南方各地に上陸し、
        そこにいた日本軍は分断され、
        圧倒的に優勢な連合軍の兵火と物量の前に、
        多くの戦死傷者を出していました。
        兵舎はゴム林の中にありましたが、
        そのゴム林にも敵機のまくビラが落ちてきました。
        ビラには
        「戦局は日本軍に決して有利ではない。
        無駄な抵抗はやめて降伏せよ」
        といった内容が書かれていたそうです。
        しかし、父たちはすぐに拾い集め、焼き捨てたとか。
        戦局がそれほどに急迫しているとは思ってもいなかったのです。

        軍隊での日々も、教育隊での日々と同じように
        厳しいものだったといいます。
        教育隊のときには飯ごうを川に流してしまっただけで
        幼児のような精神状態になってしまった人がいましたが、
        中隊に入隊後には鉄砲で自殺した人もいたそうです。
        ある日、父が訓練から帰ってみたら、
        その人は鉄砲の銃口をお腹にあて、
        自分の足で引き金を引き、
        自殺していたのです。
        このまま軍隊にいたのではどうにもならないような、
        よほど辛いことがあったのでしょう。



        〜官給品〜

        ところで、兵隊が「天皇陛下からいただいた装備」、
        つまり官給品とはどんなものだったでしょう。
        父の場合は南方でしたから、
        その地独特のものもあったようです。

        ・帽子…野球帽のようなツバのあるもので、
         南方の暑さをしのぐために帽子の後ろ側に布がたれている
        ・防蚊面…ぼうかめん・細かい網で出来ている円筒形のもの。
         頭からすっぽりかぶって蚊から身を守る。
         蚊はマラリアという病気を運ぶためにかぶる。
        ・防蚊掌…ぼうかとう・蚊よけのためのキャンバス地の手袋。
        ・半袖の防暑服…開襟シャツ
        ・袴下…こした・ステテコ
        ・軍袴…ぐんこ・ズボン
        ・軍足…ぐんそく・ソックス
        ・軍靴…ぐんか・編み上げの半長靴、いわばハーフブーツ
        ・歩兵銃…ピストルではなく、長い鉄砲
        ・弾入れ…ベルトのようにして腰に巻く。
         百数十発分の弾が入っている。
        ・帯剣…銃にさして使う剣
        ・背のう…ランドセルみたいなリュック
        ・雑のう…ショルダーバッグ
        ・水筒
        ・円匙…えんぴ・スコップ
        ・十字しゅ…ピッケル
        ・一人用天幕…テント

        …ほかにもたくさんありますが。
        背のうの中には衣類や教科書、
        食器、裁縫道具などを入れ、
        背のうの周囲には天幕を結わえ、
        これを背負ったあと、
        水筒と雑のうをバッテンがけにして肩から下げます。
        雑のうには手帳や筆記具などを入れていたそうです。



        〜逃避行〜

        さて、中隊に配属後、
        父たちはプジェットの丘というところまで行軍しました。
        到着後、すぐに父は発熱。
        防蚊面や防蚊掌などがあったにもかかわらず、
        マラリアにかかってしまったのです。
        マラリアはハマダラ蚊が媒介する
        マラリア原虫によっておこる伝染性の熱病で、
        特効薬はキニーネ。
        一定の潜伏期間の後、悪寒、震えと共に体温が上昇し、
        1〜2時間続きます。
        その後、悪寒は消えますが、
        体温は更に上昇し、
        顔面紅潮、呼吸切迫、結膜充血、嘔吐、頭痛、
        筋肉痛などが起こり、
        これが4〜5時間続くと発汗と共に解熱します。
        症状は重く、
        治療が遅れると意識障害、腎不全などを起こし、
        死亡することもまれではないという病気です。
        そのマラリアにかかってしまったのです。

        プジェットの丘にある兵舎からは南シナ海が見え、
        すでに10艘あまりの敵艦が制圧していました。
        高射砲で敵艦に向けて撃ったけれど、
        まるで相手にしていないかのように応戦してきません。
        しかし、ついに敵からの艦砲射撃が始まり、
        とうとうプジェットの丘から後退することになりました。
        要するに敵から逃げ出すわけです。
        1945年(昭和20年)6月半ばのことでした。

        父たちは友軍(同じ日本軍)の応援を待ちましたが、
        もはや戦局はそれどころではありません。
        敵の戦闘機に追われ、
        父たち敗残兵(戦いに負けて生き残った兵士)は
        湿地帯のジャングルに逃げ込みます。
        ジャングルを歩くと
        知らぬ間にゲートル(足のスネに巻く布)の中にヒルがもぐりこみ、
        それを追い払いつつ行軍するのです。

        プジェットの丘を逃げ出してから1ヵ月後、
        敵の爆撃はいよいよ激しくなり、
        父たちはさらに奥地へと後退することになります。
        マラリア患者は父だけではなく、
        他にも大勢いて、
        その患者たちと負傷者が軍用トラック1台に収容され、
        トラックに乗ったままでの後退です。
        父は連日の悪寒、発熱に苦しめられ、
        衰弱しきっていたため、
        トラックでの乗車後退を命じられたのですが、
        「生き抜けよ、がんばれよ」という戦友の声も、
        発熱中の父には遠い所で聞いているようにしか思えなかったそうです。

        トラックの荷台にうずくまっていた父は、
        別の中隊にいた土居さんの、のぞきこむような顔を見ました。
        土居さんは日沙商会でも、教育隊でも一緒だった人です。
        「このままではあいつは死んでしまう。
        私の持っている注射薬を打ってやってくれ」
        と軍医に頼み込んでくれまいた。
        軍医の持つ薬以外は投薬できない規則の中で、
        どういうやりとりがあったのかわからないけれど、
        おかげで父は死線から這いだしたのです。

        しかしトラック後退での途中、
        道が爆破されていて先に進めなくなったため、
        マラリア兵と負傷兵は降ろされ、
        それぞれが三々五々後退することになりした。
        父は渡辺さんという同年兵と一緒に、
        なぐさめ、かばいあいつつ、
        杖をつきながら歩いたそうです。
        途中、小屋を見つけて泊まることにしたのですが、
        中にはすでにマラリア患者3人がいました。
        翌朝、早くに目がさめた父は、
        先客であった左隣に寝ていた兵隊に
        「洗面にいってきます」と声をかけ、
        自分の手ぬぐいをとろうとしたところ、
        隣の手ぬぐいが落ちて、
        その兵隊の顔にかかってしまいました。
        それを取り除いて謝ったのですが、
        返事がありません。
        疲れて眠っているのだろうと思い、
        そのまま洗面に出たのですが、
        小屋に戻って声をかけても、やはり返事がない。
        顔に手を近づけてみると、息をしていなかったそうです。
        一夜のうちにその兵隊は亡くなっていたのです。

        ある峠を越えたところは、
        密林に囲まれた盆地状になっていて、
        父たちはしばらくそこで過ごしました。
        父が所属した中隊の隊員の一部もそこにいて、
        20人ほどが駐屯していました。
        指揮をするのは軍曹。
        ところが敵の空襲を受け、軍曹は足を負傷。
        軍医がいる野戦病院まで担架で連れて行くことになりました。
        けわしい崖のある狭い山道を担いでいくのです。
        担架が揺れると、40歳すぎのベテラン軍曹が
        「痛い、痛い、お母さん!」と叫びます。
        結局、軍曹はその野戦病院で亡くなったそうですが、
        軍人精神をそのままあらわしたかのような軍曹でさえ、
        最後に頼るのは天皇陛下ではなく
        「お母さん」なのです。

        その後、中隊が到着、父はようやく元の隊に復帰しました。
        が、そこからまた行軍が始まります。
        しかし、一度は落ち着いたかに思えたマラリアがまた再発し、
        落伍寸前になりながらも、
        父はふらつく足で戦友の肩を借り、
        目的地にたどりついたのです。

        父は当時、脚気にも苦しんでいました。
        脚気とはビタミンB1不足のためにおこる病気で、
        足がしびれたり、むくんだりします。
        同じ中隊の数人が、
        その地よりさらに奥地で野菜を作っているということで、
        「合流して野菜を食べて治せ」ということになりました。
        同病の対比地さんと一緒です。
        これが1945年(昭和20年)7月20日頃。
        ジャングルの中を、目的地に向かって歩くのですが、
        ジャングルにはマングローブが生え、
        その根が水の中に出ている湿地帯を、
        腰まで水につかりながら歩いていくのです。
        マラリアと脚気の患者2人がよろよろと歩いていくのです。
        なんと辛かったことか、
        心細かったことか。
        しかし、新鮮な野菜をふんだんに使った食事のおかげで、
        脚気で袴下(こした・ステテコ)もはけないほどだった足のむくみも、
        ウソのように治ってしまいました。

        ところが体が衰弱しているところへ、
        急激にたらふくご飯を食べる毎日は、
        胃腸への負担が大きかったのでしょう、
        今度はお腹の具合がおかしくなってしまいます。
        アメーバ赤痢(大腸カタル・大腸の炎症)です。
        トイレに30分おきに通うハメになってしまいました。
        そうこうするうちに、またマラリアが再発。
        体力の衰えを病気が待ち構えているような日々でした。

        中隊に配属後から終戦までの半年あまり、
        父は飢えと病気と闘いながらの逃避に次ぐ逃避行でした。
        「よく永らえて今日があるものと、不思議にさえ思う」
        と記しています。
        もっとも飢えと病気と闘いながらの逃避行は、
        父だけではありません。
        他にも何人も、何十人、いえ何百、何千、何万という兵隊たちが、
        病気の程度、飢えの程度の差はあっても、
        同じように苦しんだのです。
            


        〜終戦、そして捕虜収容所〜

        「1945年(昭和20年)8月15日。
        敵機が低空で飛来。
        飛行士の顔も見える。
        われわれは本能的に木の陰に隠れたが、
        敵の機銃掃射もなく、飛び去っていく。
        戦争締結が誤報ではないことを知った。
        ついで、停戦協定ではない、
        敗戦降伏であることが、通信隊からの情報で明らかになる。
        茫然自失(ぼうぜんじしつ)−。
        まだわれわれは戦えるのに、何で降伏せねばならぬのか。」
        …終戦を知ったときのことを父はそう書いています。

        しかし、その日のうちにまたマラリアが何度目かの再発。
        ゾクゾクと身震いし、高熱が出ます。
        もうろうとした意識で何日かが過ぎ、
        オーストラリア兵が日本兵を捕虜として収容するため、
        奥地までやってきました。
        川を船でさかのぼってやってきたのです。
        しかし父には気力も体力もなく、
        腰がふらついて立つことさえできません。
        「船に乗れ」という命令にも
        「置いていってくれ、死んでもかまわん」と言うのがやっとで、
        また意識が薄れていきます。
        気がついたら船に乗せられていました。
        みんなが戸板に乗せて船まで運んでくれたそうです。
        父は戦友によって一命を取りとめたのです。

        こうしてその年の8月20日頃、
        父たちは捕虜収容所に入れられました。
        が、与えられる食事は病人ということもあり、
        わずかなビスケットだけ。
        20歳の青年に足りるはずがありません。
        その後、別の収容所に送られてからも食事は少なく、
        たとえば朝は飯ごうのフタにすれすれいっぱいのおかゆだけ。
        ひもじさのあまり、隠れてタピオカイモを生のまま
        一度にたくさん食べたため、
        翌朝には亡くなってしまった同年兵もいたそうです。
        帰国を目前に、そんな死に方をして、
        なんと哀れで無残なことでしょう。

        父は収容所の中で、上官から鉛筆書きの短歌をいただきました。
        「やむがては心おきなく住める世を 
        思ひて(思いて)けふ(きょう)も忍び生きなん」
        「はぐくみて咲かせし花を散らすのも 祖国は同じ春の雨かな」
         


        〜帰国〜

        収容所生活が半年におよぼうとする1946年(昭和21年)2月11日、
        父たちは復員船「輝山丸」に乗船しました。
        父はこう記しています、
        「これで日本へ帰れる、という思いが、
        戦(いくさ)敗れた無念さと交錯して、
        胸をしめつけられるようでもあり、
        胸に穴があいたようでもある」。

        輝山丸が広島県の大竹港に入港したのは、その年3月8日。
        翌9日にようやく下船がかない、
        なつかしい祖国に上陸してみると
        粉雪が舞っていました。
        防暑服の上下や衿をかきあわせ、
        哀れな捕虜は震えるばかりだったといいます。
        赤道直下のボルネオから約ひと月かけて
        春まだ浅い日本へと帰ってきたのです。

        その4日後、父は両親の住む木之元駅にたどり着きました。
        駅頭には白いエプロン姿の母親が出迎えていてくれ、
        夢かと思ったそうです。
        母親は外聞も何もなく父に抱きつき、
        「やせたねえ、もう、これからはどこへも行かないでね」−。
        18歳の青年だった父が勇んで行ったはずの南方だったけれど、
        それが実は親不孝という結果を招いていたのだと知り、
        父はたまらない気持ちだったそうです。



        〜おわりに〜

        この夏、戦争中の話を聞いた折に、
        父は「こんなものがあるよ」と
        手の中にすっぽりおさまるほどの小さなものを見せてくれました。
        2cm×5cmくらいの布の上に星が3つ縫い付けてあります。
        階級章です。
        捕虜収容所にいる間に上等兵となった父の、
        階級を示すものです。
        父は帰国以来、ずーっと、何十年もの間、
        これを神棚にしまっておいたそうです。
        色もあせ、汚らしく見えるそれは、
        しかし父と一緒に南の国から帰ってきたもの。
        なんといとおしいものでしょう。
        父とともによく無事に帰ってきたことでしょう。
        そして父はこんなに小さな汚らしいものを
        大事に大事にしまっておいたのです。
        父の若い時代の壮絶な体験を、つぶさに見てきた階級章。
        私はそれを手にとり、
        「よくぞ無事に帰ってきてくれたこと…」。
        思わずつぶやきました。

        (了)

          ***********************

        2019年夏。
        父95歳、足腰こそ弱っているものの、
        今もなお意気盛んです。
        頭もはっきりとし、私に苦言を呈することもしばしば。
        そして今も言います、
        「機会があればもう一度ボルネオに行ってみたいねぇ」。
        叶うはずなどないことですが、
        輝くような日々と、正反対の壮絶な日々とが交錯する
        青年時代を過ごしたボルネオ島は
        父の生きる支えになっているのかもしれません。



        | 非日常のこと | 14:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        去年と今年〜プライベートなこと
        0
          去年のトピックは2つあります。

          夏。
          長いこと迷っていた歯列矯正を始めました。
          長いことといったって、
          うっかり20年ほども迷っていたのです。
          娘が矯正を始めたころ、
          一緒に私も!とも考えました。
          上の両方の犬歯がひどい八重歯で
          下の歯は乱杭歯。
          で、私の場合、歯を抜かないと矯正できないと。
          だから一度は諦めました。

          担当矯正医は弟です。
          彼は非常に勉強熱心な矯正歯科医です。
          その手前、他の矯正歯科にかかるわけにはいきません。
          それにしても歯を抜く、
          それも最も強いという犬歯を抜くというのだから
          ひるんでしまっても当然でしょう。

          けれど美しい歯並びの人を見ると
          いいなぁ、羨ましいなぁ…という思いが湧いてきます。

          弟に聞きました、私の年齢で矯正はできるの?
          「もちろん! 
          いや、年齢が高い人ほど矯正をして
          物をちゃんと食べられるようにしておかないと
          身体がどんどん弱っていくよ。
          ぜひ、やりましょう!」と。

          上の犬歯を抜き、矯正器具をつけ、
          ようやく半年。
          未だ器具に慣れず、
          しかも食べ物を噛むと奥歯が痛いのだけれど
          これも憧れていた美しい歯並びを手に入れるための修行!
          多分、あと2年か3年はかかるでしょうけれど…。
          こうして私の「美しさ」への道がスタートしたのです。

          11月。
          薄々疑ってはいたのですが
          発達障害だと判明しました。
          ADHDです。
          注意欠陥多動性障害。

          長時間の検査を2度受けました。
          その結果、軽い(!)ADHDだとわかったのです。

          発端は、娘から
          「おかあさんは不用意な発言が多い」
          「もっと気をつけないとケガするよ」と
          何度となく言われたことです。
          そして決定打となったのが
          占い鑑定に行くつもりで家を出たのに
          最寄り駅に着いたら
          占い道具をぜーーんぶ家に置き忘れてしまったこと。
          そのときは何を着たらいいかということばかりに気を取られ
          占いのことをすっかり忘れていたのです…。

          実は小学生の頃から忘れ物が異常に多く、
          遅刻も数知れず。
          学生時代の友人は私が時間通りに約束の場所に行くと
          ひどく驚きます。
          さすがに社会人になってから
          ましてフリーランサーですから
          時間を厳守しようと頑張っていますが
          それがものすごいプレッシャーで…。

          心療内科医に相談したら
          初見で「間違いなくADHDですね、
          話があっちこっちに飛びますもん」と言われました。
          で、検査結果が黒!

          もうね、すべてがクリアになりました。
          忘れ物が多いのも、
          しょっちゅうケガやヤケドをするのも、
          遅刻常習犯であることも、
          物を片付けられなくて家の中が雑然としているのも、
          飽きっぽいと言われるのも
          (違います、今やっていることよりも
          もっと素敵なことが目に入るので
          すぐにその素敵なことに飛びついてしまうのです)
          ぜーーんぶADHDのなせる業。
          謎がするすると解けていった感じです。

          こういう私にどんな対処法があるのか。
          薬という選択肢もあるそうですが、
          それほど症状が重いわけではない。
          生活の中でのいろんな工夫で対処できそうな気がします。

          今年は、ですからADHD対策を考える年。
          本を読んでいます。




          講演会にも行きます。
          スケジュール帳で自分を管理もしています、
          ゆる〜くですけど。

          さらに。
          体力をつけたい。
          かつては体力自慢だったのに
          体に不調をきたして数年。
          家の中にこもりきりだったので
          体も心もエネルギー不足です。
          外出が堪えます。
          少しずつ回数を増やしながらジムに通って
          元気な私になりたい!
          お出かけするチャンスも作って
          楽しみながら元気になりたい!

          全部が全部、クリアできるとは思っていません。
          そんなに張り切ってはいない。
          けれどジワジワと、少しずつ変化していけばいい。
          そう思う2019年のお正月です。

          | 非日常のこと | 16:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          去年と今年〜お仕事のこと
          0
            去年のことを振り返るには
            いささか遅すぎるかもしれません。
            けれど、2019年のスタートにあたり、
            やはり過去を踏まえなければ
            その続きはありえないということで
            昨年のことから書き起こしましょう。

            まずはお仕事。
            【サロン・ド・マリィ】という看板を立ち上げました。
            私マリィの仕事は、
            それが鑑定であれ、ライティングであれ、
            あるいはレッスンであれ、
            全て【サロン・ド・マリィ】の名のもとで。
            そんなスタイルをつくったわけです。

            いえ、実際にやっていることに変わりはありません。
            ただ自分の中できっちりと「仕事」という意識を持つために、
            そして今後の仕事の展望を踏まえて
            看板を作ったのです。
            そして、この看板を背負って、
            初めてのマリィ主催のお茶会を開きました。
            おかげさまで想定よりも多くの方にお運びいただき、
            しかもとても楽しく、有意義なお茶会ができたと思います。

            集英社non-no Webで
            夢占いのサイトを立ち上げていただきました。
            夢占いの本は増刷もかかりました。



            さらに発展形がスタートすることも決まっています。
            あら? 私、夢占いの人だったの?…と
            自分のことながら不思議な感じがしています。

            大切なバディ・小泉茉莉花さんとのユニット「太陽と月の魔女」では
            〈太陽と月の魔女カード・プチ〉を企画し、
            発行することができました。
            それに伴ってセミナーを何度も開きました。
            また説話社で
            「ウィッチサイン占星術」というコンテンツを作っていただきました。
            こちらも充実の1年というわけですね。

            そして今年は何を考えているか。

            【サロン・ド・マリィ】を充実させようと思っています。
            要はコンテンツを増やし、
            仕事のフィールドを広げる、ということです。
            そして、そのコンテンツひとつひとつを
            もっと充実させようじゃないかという思いを持っています。

            たとえばお茶会。
            1年間のスケジュールを決めて
            もっと濃い会を!と考えています。
            今年は四季図を読んでいくというプラン。
            果たしてどこまでできるかわかりませんけれど…。

            ※2019年1回目は、2月3日(日)節分の日。
            春分図を読んでいきます。
            もちろん参加なさった方のホロスコープと照らし合わせ、
            個々人の運気も読みましょう。
            と同時に、「濃い会」というからには
            ご参加の方とも密にやり取りしたいと思っています。
            占いビギナーの方にもわかりやすく、
            占いを知っている方には知識の整理ができるようにというのが
            着地点かな。

            たとえば鑑定。
            定期的に鑑定会を開くのもありでしょう。
            今までインプットするばかりで
            不足していたのはアウトプット。
            この両輪が上手に作動しないと
            マリィの占いは成長していかないと思い当たりました。

            たとえばライティング。
            好きだから書く、それが私のこれまでのスタンスでした。
            もちろん雑誌等のメディアからご依頼があれば
            喜んで書かせていただきます。
            それに加えて、もうちょっと自由裁量が加味されたなら
            もっといい!
            それができるフィールドを作っていきたいという思いがあります。


            思いを言葉にする。
            とても大事だと思います。
            私のようにふわふわとした人間は
            思っただけでは、考えただけでは
            物ごとは実現しません。
            頭の中にあることを
            しっかりと言葉にして記録し、
            自分の目でその文字を読んで再確認しないと。
            そんな思いで書いています。

            今日はここまで。
            次回はプライべートなことをお話しいたしましょう。

            | 非日常のこと | 12:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            あけましておめでとうございます!
            0
              あけましておめでとうございます!
              旧年中はみなさまに応援していただき、
              本当にありがとうございました。
              心より感謝申し上げます。

              今年もどうぞよろしくご贔屓いただけますよう
              お願いいたします。




              新しい2018年、どんな年になるでのしょうね。
              天皇陛下がご退位なさり、
              皇太子様が天皇となられます。
              そして元号が変わります。
              それがどれほど大きなことなのか、
              実感としてわかりかねますが、
              大きな時代の流れの中での
              確実なひと区切りとなるでしょう。

              …私の住む町は今、とても静かです。
              そんな中、近所の神社だけ明るい。
              夜通し火を焚き、
              初詣の人たちに甘酒、お神酒をふるまっているのです。
              例年のことながら、
              それはとても美しい光景で
              しみじみとお正月を味わう瞬間でもあります。

              みなさまの新しい1年が
              キラキラと輝きますよう、お祈りしております!


              | 非日常のこと | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              台湾にもあるじゃないか!
              0
                台湾を訪れたのは11月下旬の連休あたり。
                ちょうど台北市、高雄市などの市長選挙の直前でした。
                ホテルのテレビでは選挙関連の放送ばかり。
                と思ったら、あるではありませんか、
                西洋占星術!



                こうやって12星座の明日の運勢が表示されていました。
                ラブ運ですね。
                ほほお、日本とおんなじだ!

                日本とは違うスタイルの占いも
                テレビ放送されていました。
                タロットです。
                小アルカナまで使って、今週の運勢を紹介しています。


                こちらは女性の解説担当者がいました。




                街の中には、おみくじ。
                10元ですから、370円ほど。
                ちとお高いおみくじです。
                数字が書かれた棒を引き、
                その数字の引き出しにおみくじが入っているというもの。




                占いの店舗が集まっている占い街にいくと
                四柱推命の看板が圧倒的に多かったけれど、
                テレビではアストロロジーやタロットが出てくるわけで
                これはエンターテイメント的な扱いなのでしょうかしら。
                本気の占いは四柱推命などの東洋系の占いで、
                お楽しみは西洋系の占いで、と
                棲み分けているのかもしれません。

                現地の人と言葉を交わすチャンスがなかったので
                実際のところ
                台湾で占いはどんな位置づけか、わかりません。

                けれど日本と同じように
                日常の中に入り込んでいるんだなぁ…と思った次第。

                | 非日常のこと | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                台湾・台北 占い体験・デビー先生
                0
                  台北での占い体験。
                  もう一人の占い師さんは、デビーさんという女性。
                  龍山寺に近いビルの一室に
                  「方舟命卜又誼(はこぶねめいぼくようぎ)」という名の
                  オフィスを構えています。
                  日本語OKなのも嬉しい。

                  デビーさんというのは愛称のようで
                  本名は、いや、本名じゃないかもしれませんけど、
                  台湾のお名前は、王又誼(おうようぎ)さん。

                  心地よい、けれどデスクひとつの小さなオフィスに
                  「方舟命卜又誼」と名付け、
                  「ノアハウス占い館」という日本名まであるのは
                  なかなか商売をしてるなぁと感じさせられます。

                  事前に予約を入れておきました。
                  お忙しいようで、希望の日時に予約が取れず、
                  夜9時半という遅い時間のお約束。

                  場所を何度も確認しておきました。
                  ところが!
                  タクシーの運転手に住所を示したにもかかわらず、
                  龍山寺の真ん前におろされて、
                  それから迷子になっちゃった。
                  それもデビー先生に「迷子になりました…」と電話して
                  迎えに来てもらう始末…。
                  約束の夜9時半を15分もすぎて
                  ようやっと到着。

                  遅刻のうえに、お迎えまでしてもらったのに
                  ちっとも嫌な顔をなさらず、
                  デビー先生は穏やかに、にこやかに対応してくださいました。

                  占い法は王道の四柱推命。



                  こんな用紙に命式を書き込み、
                  今までのこと、これからのことを占っていただきました。

                  占いの内容が気になるのは当然ですけど、
                  その仕事の仕方にも非常に興味がありました。
                  まずはオフィスを持っていること。
                  以前は龍山寺近くの地下にある占い街でお仕事していたそうです。
                  最近、そこから脱出して、今のオフィスに移ったのだとか。

                  オフィスの中には興味を惹かれる占いの書物が並んでいます。
                  いや、いくら興味があっても
                  中国語がわからないから、どうしようもないのだけれど。
                  いや、漢文か…。
                  なんにせよ、読めないのだから仕方ない。

                  夜だからか、とても静かで、寛げます。
                  占い師のオフィスというよりも
                  大学の研究室といった感じ。
                  いいなぁ、私もこういうオフィスを持ちたい!

                  占い結果は?
                  これからはサービス業として、
                  お客様の需要に合わせたら
                  わりとラクに儲けられるでしょうって!
                  そうそう、感情が豊かな人ですね、
                  でも感情から抜け出せないですね、とも言われましたっけ。

                  オンライン鑑定もしてくださるそうです。
                  以下がオフィシャルサイトURL。
                  日本語対応しています。
                  http://www.arkdebbie.com

                  改めてオフィシャルサイトを見たら
                  日本でもモバイルサイトを持っていますね。
                  年に何回も日本に訪れては占っていると言いますから
                  台湾内のみならずの活躍というわけで。

                  そうそう。
                  実際のデビー先生、
                  写真よりもずーーっと愛らしい方でしたよ。

                  | 非日常のこと | 01:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  台湾・台北 占い体験・陳淑琴先生
                  0
                    台北での目的は、占い体験。
                    じっくり時間をかけて、2人の占い師さんに占ってもらいました。

                    日本だと占いをしたいとき、
                    個人的に開業している方に予約を取って、というスタイルと、
                    占い館に何人かの占い師が待機していて
                    いついっても誰かには占ってもらえるスタイル。
                    おおまかに、この2パターンじゃないかと思います。

                    さて台湾・台北には2つの占い街がありました。
                    行天宮という寺院の地下街は、命理大街といい、
                    龍山寺の地下街のほうは開運命理街。
                    竜禅寺のほうが倍ほどの規模ということで、
                    開運命理街へ。

                    事前準備不足で、当てずっぽうでした。
                    大きな占い館の中に
                    小さなブースがあるのだと思ってましたけど、
                    地下街には小さなお店がビシッと集まてる感じ。
                    それぞれが個人営業しているのです。
                    つまり日本のスタイルの折衷といったところ。

                    感じのいい女性の占い師さんがいたので
                    紫微斗数でお願いできるか聞いたところ、快諾。
                    もちろん日本語OKの占い師さんです。
                    さっそくお願いしてみました。

                    占い師さんは、珍淑琴さんというお名前。
                    明るくてテキパキしていて、
                    でも、やさしい雰囲気を持った方です。



                    紫微斗数で占ってもらうのは初めて。
                    生年月日と出生時間、出生場所を伝えると
                    陳先生はさっそく命式を作り始めました。

                    最初は性格的な特徴から。
                    性格の欠点を伝えてくれるとき
                    「言ってもいいですか? 怒らないでね」と。
                    おやおや、欠点を伝えるのに、そんなに慎重にならなくても…。

                    過去のこと、今後のことを簡単に教えてくださったので、
                    これから先、何年頃に何をしたらいいか、
                    それを成功させるためのヒケツなど
                    矢継ぎ早に質問。
                    それにもちゃんと答えてくださいます。
                    とても具体的な内容のお答えでした。

                    死期も教えてもらいました。
                    もうちょっと生きたい!と言ったら
                    「徳を積みましょう」と。
                    たとえば寄付をすれば
                    ひとりだけじゃなく、何百何千という人を助けられますね、
                    それがあなたの徳となって
                    命を延ばし、幸運をもたらしてくれるのです、と。

                    それだけじゃありません。
                    私自身が占いをするときの心得を
                    懇切丁寧に教えてくださいました。

                    さらに卜占として、米粒占いを。
                    小さなケースに入った米粒を
                    3つの小皿に好きなだけとりわけ、
                    それを読み取るものです。
                    簡易な易占かと思ったのですが
                    そのへんはちょっとわからず…。

                    果たして紫微斗数が私にしっくりきているのか、
                    陳淑琴先生の語り口調や、占いへのアプローチ法が
                    私と相性がいいのか、わかりません。
                    が、とてもいい気分で占いブースを出ることが出来ました。

                    私が個人の方の鑑定をするときも
                    こんな気持ちで帰っていただけるようにしたい!
                    そう思えるような陳淑琴先生だったのです。
                    | 非日常のこと | 17:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    台北のパワースポット「龍山寺」
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                      3泊4日で台湾に行ってきました。
                      休養を兼ねて、台湾の占い事情を知ろうという旅行です。

                      まずは台北市内のの龍山寺(ロンシャンスー)。




                      台北屈指のパワースポットといわれている仏教寺院で、
                      観音菩薩がご本尊です。
                      けれど奥のほうには媽祖様やら文昌帝君など道教の神様も祀られていて、
                      何が何やら…。

                      でありながら引きも切らずの参拝者。
                      しかし人が多いからか、
                      清々しさを受け取ることはできません。
                      むしろ活気のあるエネルギーが満ちている感じ。

                      それにしても、です、
                      人々は小さな声でぶつぶつと祈りの言葉を伝えています。
                      隣に立つ人の声がちゃんと聞こえるのです!
                      これは信仰が厚いというのかしら。
                      いえ、祈りではない。
                      願いごとのようです。
                      生かしていただき、ありがとうございます、
                      こうやって伺うことができ、ありがとうございます、
                      そんな言葉は聞こえず、
                      ひたすら「お願いします」「願いが叶いますように」と言っている。
                      …ように聞こえます。
                      まわりは中国人ばかりですから
                      言葉がわからないのだけれど、
                      でも様子から必死で”願っている”ことが伝わります。

                      願いを叶えてくれるのが神なのか?
                      感謝を捧げる対象が神か?
                      そのへんは宗教観によりけりなのでしょうけれど。

                      ご本尊のまわりを取り囲んで四角に通路が作られていて、
                      神々が祭られています。
                      ひとつひとつご挨拶し、
                      最後におみくじを引きました。

                      木でできた赤い三日月型が2コで1セット。
                      筊杯(ジャオベイ)というのだそうです。
                      この1セットを振り、
                      裏と表の1組ができたら、
                      おみくじを引いてよい。
                      2度までやって、表と裏の組み合わせができなかったら
                      神は激怒しているので
                      おみくじを引いてはいけない。
                      と、壁に掲げた説明書きに書いてありました。

                      幸いにして裏と表の組み合わせができたので
                      おみくじを引きます。

                      このおみくじ。
                      日本の道教寺院ではどこでもやっているのではないかしら。
                      横浜の媽祖廟、関帝廟でも同じスタイルのおみくじでしたし。

                      さて、書かれているのは、もちろん全部、漢字!
                      「解籤処」と看板が掲げられた、ちょうど社務所にあたるような場所に
                      おみくじの意味解きをしてくれる人が何人か控えています。
                      中国語のみならず、
                      英語と日本語にも対応しています。

                      日本語を話す人はランチ中で席を外していたので、
                      仕方なしに英語の解説を聞きました。
                      私の質問内容を伝えると
                      「あ〜、こういうことね?」と質問を要約し、
                      さらに「遅延するよ、でも願いは叶うから心配しないで」と。
                      補足でさらに質問すると
                      「そういったことはありえない。
                      だってここに〇〇と書いてあるもの!」と
                      おみくじの文字を指し示しました。

                      勝手の分からない異国の寺院での参拝体験は
                      ちょっと面白くもあり、
                      また台湾の人々の宗教観を垣間見ることが出来たという意味でも
                      とても興味深いものでした。

                      | 非日常のこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |